Black September : ヨルダン内戦

Black September (Arabic: أيلول الأسود‎; Aylūl Al-Aswad) was the conflict fought in Jordan between the Jordanian Armed Forces (JAF), under the leadership of King Hussein, and the Palestine Liberation Organization (PLO), under the leadership of Yasser Arafat, primarily between 16 and 27 September 1970, with certain actions continuing until 17 July 1971.
After Jordan lost control of the West Bank to Israel in 1967, Palestinian fighters known as fedayeen moved their bases to Jordan and stepped up their attacks on Israel and Israeli-occupied territories. One Israeli retaliation on a PLO camp based in Karameh, a Jordanian town along the border with the West Bank, developed into a full-scale battle. The perceived joint Jordanian-Palestinian victory in the 1968 Battle of Karameh led to an upsurge in Arab support for the Palestinian fighters in Jordan. The PLO‘s strength in Jordan grew, and by the beginning of 1970, groups within the PLO had started to openly call for the overthrow of the Hashemite monarchy. Acting as a state within a state, the fedayeen disregarded local laws and regulations, and even attempted to assassinate King Hussein twice—leading to violent confrontations between them and the Jordanian army in June 1970. Hussein wanted to oust the fedayeen from the country, but hesitated to strike because he did not want his enemies to use it against him by equating Palestinian fighters with civilians. PLO actions in Jordan culminated in the Dawson’s Field hijackings incident of 10 September, in which the fedayeen hijacked three civilian aircraft and forced their landing in Zarqa, taking foreign nationals as hostages, and later blowing up the planes in front of international press. Hussein saw this as the last straw, and ordered the army to move.
On 17 September, the Jordanian army surrounded cities with a PLO presence including Amman and Irbid, and began shelling the fedayeen, who had established themselves in Palestinian refugee camps. The next day, a Syrian force with Palestine Liberation Army markings, intervened in support of the fedayeen. It advanced towards Irbid to which the fedayeen had declared a “liberated” city. On 22 September, the Syrians withdrew after the Jordanian army launched an air-ground offensive that inflicted heavy Syrian losses. Pressure mounted by Arab countries led Hussein to halt the fighting. On 13 October he signed an agreement with Arafat to regulate the fedayeen’s presence. However, the Jordanian army attacked again in January 1971. The fedayeen were driven out of the cities, one by one, until 2,000 fedayeen surrendered after being surrounded in a forest near Ajloun on 17 July, marking the end of the conflict.
Jordan allowed the fedayeen to leave for Lebanon via Syria, and they later became a combatant in the 1975 Lebanese Civil War. The Black September Organization was founded during the conflict to carry out reprisals. The organization’s first operation was the assassination of Jordanian Prime Minister Wasfi Al-Tal in 1971. It then shifted to attacking Israeli targets, including the highly publicized 1972 Munich massacre of Israeli athletes.

ヨルダン内戦は、1970年にヨルダンにおいて発生したヨルダン政府とパレスチナ解放機構(PLO)との内戦。9月に発生したことから黒い九月事件(ブラック・セプテンバー事件)と呼ばれることもある。

事件の推移

背景

ヨルダンは中東において比較的穏健的現実路線を取っていた王国であったが、ヨルダン川西岸地区を占領するイスラエルと対立しており、国内に多数のパレスチナ難民を抱えていた。ヨルダンにとって3日間で敗北を喫した第三次中東戦争終結後、ヨルダン政府はPLOを支援してヨルダン川を越境攻撃したが失敗、以後ヨルダンはイスラエルに対して強硬手段をとることを諦め、現実路線に移ろうとした。

一方、首都アンマンのPLO指導部は、寝返ろうとしているヨルダン政府を転覆し、新生パレスチナ国家を樹立するべく各地でヨルダン政府軍・警察と戦闘を繰り広げ始めた。さらに、資金集めと称して銀行を襲撃したり、パレスチナ難民から不当な税金を取り立てたりと、次第にヨルダン人からもパレスチナ難民からも嫌悪される存在に堕ちていた。

さらに、1970年9月6日にPLOの過激派PFLPによる連続ハイジャック事件が発生したことにより、ヨルダン国王フセイン1世が激怒し、PLO排除を決意した。

PFLP旅客機同時ハイジャック事件

 9月6日、PFLPとPLOに賛同するアラブゲリラが5機の旅客機を2日に渡り同時にハイジャックした。実行犯が事件直後に機内警備員により殺害されたイスラエルのエル・アル航空のボーイング707型機以外の4機の内、3機はヨルダン国内のザルカにある旧イギリス軍軍用基地に、同基地に着陸できなかったパンアメリカン航空のボーイング747がエジプトのカイロに着陸させられた。

PFLPはイギリス、西ドイツ、スイス、イスラエルに対して、投獄されたメンバーの釈放を要求した。9月12日に、西ドイツを除く3国は要求に応じて釈放、PFLPも人質を解放したが、無視したイスラエルへの不満として全ての旅客機を爆破した。

この事件により、国内にPLO本部を置かせることを認めていた上に、国土の一部分をPFLPのなすがままにし、その末にハイジャックの目的地とされたヨルダンは世界的な批判を浴び、窮地に追いやられたフセイン国王は激怒して行動を決意した。

戦闘勃発

9月14日、フセイン国王は国内に戒厳令を敷き、国王親衛隊のベドウィン部隊を中心とする政府軍がアンマンに進出し、PLO部隊への攻撃を開始した。戦闘はヨルダン各地に波及し、圧倒的な軍事力を持つ政府軍にPLOは敗走を重ねる。しかし、PLO支援に積極的だったシリアは陸軍をヨルダンに侵入させ、PLOに加勢した。

このままではヨルダンとシリアの戦争に発展してしまうことは明らかであったため、アメリカ合衆国は空母部隊を地中海のイスラエル沖に派遣し、ヨルダンの行動を支持すると共に、軍事介入したシリアに対する牽制とした。イスラエルは陸軍部隊をゴラン高原に展開し、シリア軍に対して警戒を強めた。当初はこのヨルダンの混乱に乗じてイスラエルが軍事作戦を展開する動きもあったが、その計画は見送られた。

結局、エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル大統領がヨルダン・シリア・PLOの仲介に入り、PLOは受け入れを表明したレバノンへ本部を移転させることとなり、ヨルダン政府軍、PLOとシリア軍は停戦した。この結果、PLOは指導部と主力部隊をレバノンに移した。

変革と影響

ヨルダンはPLOを国内から追放できたことによって国内の安定を取り戻した。しかし、アラブ連盟の総意で設立されたPLOを攻撃したことで、連盟各国から強い非難を浴び、アラブ社会から追放されてしまう。

仲介の大役を果たしたナセルであったが、直後の9月28日に心臓病によって52歳で急死した。エジプト革命と近代化の立役者を失い、エジプト国民だけでなくアラブ全体が動揺した。代わって大統領となったアンワル・アッ=サーダートはナセルの同志であったが、就任当初からイスラエルとの講和を構想していた。

シリアでは11月にハーフィズ・アル=アサドの指揮によって空軍クーデターが勃発する。ヨルダンへ侵攻したシリア軍は陸軍のみであったが、このとき空軍司令官であったアサドはアタシ大統領の出動命令を拒否した。アサドはPLOの姿勢に懐疑的であり、就任当初からPLOに好意的なアタシ政権に対する反発があったとされている。この後、アサドは大統領に就任し、PLOとは対立するパレスチナ政策を繰り広げていく。

レバノンは多宗教国家であったが、ここにパレスチナ難民を引き連れたPLOがやってきたことによって、それまでの宗教バランスが崩れた。調和の崩壊は対立と衝突を生み、1975年にキリスト教武装勢力がPLOを襲撃したことからレバノン内戦が勃発する。

PLFPの一部メンバーはこの事件を恨み、9月に起こった事件として「黒い九月・ブラックセプテンバー」と呼び、自らのグループ名とした。彼らは1972年のミュンヘンオリンピックにおいて、イスラエル選手団を襲撃、多数を殺害するいわゆるミュンヘンオリンピック事件を起こしたのであった。

 

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