Carlos Marcello : カルロス・マルセロ

Carlos Marcello, also known as The Godfather and “The Little Man” (February 6, 1910 – March 2, 1993), was a Sicilian-American mafioso who ruled the New Orleans crime family from 1947 until the 1980s. Credible investigators, mob figures and Robert F. Kennedy reportedly believed Marcello masterminded the 1963 assassination of President John F. Kennedy in retaliation for federal prosecution that threatened his $2 billion organized criminal activities across Louisiana and Texas.

カルロス・マルセロ(1910年2月6日 – 1993年3月3日)はマフィアのボスだった人物。本名はカロジェロ・ミナコーレ(Calogero Minacore)。自称トマトの販売人。

アメリカで最も古い歴史を持つマフィア・ファミリーのゴッドファーザーで、ニューオーリンズを本拠地にルイジアナ州、テキサス州などの都市を支配しメキシコ湾岸も支配していた暗黒街の顔役だった。ジョン・F・ケネディを暗殺したとされるリー・ハーベイ・オズワルド及びオズワルドを殺したジャック・ルビーとつながりがあり、さらに事件の起きたダラスは彼の縄張りだったことから、暗殺に何らかの形で関与していたのではないかと言われている人物。身長は160cmほどだが凶暴なことで有名だった。

人物

彼は14歳で学校を辞めたので英語力も数学力もほとんどなかった(ちょっとした計算も部下にやらせた)。しかし、肉体、精神力は優れていたため、組織を操り、検事、判事、政治家を支配。人を操る能力が優れていたと思われる。

他の兄弟はみなアメリカの市民権を持っているが、なぜかカルロスだけは取得していなかったため、徴兵を免れることが出来た。他の弟たちは世界大戦中にヨーロッパの戦地に行ったという。カルロスの弟たちもギャンブル場を経営するなど組織犯罪に絡んでいた。

マルセロは黒人への差別意識が高く人間以下の存在と思っており、これは黒人初のニューオーリンズ市長になったアーネスト・モリアル(Ernest Nathan Morial)のことを「黒ンボウ」と言っていたことにも表れている。尚、1979年にFBIのおとり捜査官の盗聴で彼がその様に発言した録音が残されている。また彼は白人至上主義団体KKKの支持者でもあり、黒人解放活動家のマーティン・ルーサー・キング・ジュニアを軽蔑していた。

カルロスはアル・カポネの元シェフだったプロヴィノ・モスカという男をシカゴから呼んで料理を作らせたという。彼の料理があまりにもうまかったので、彼と家族のために家を建ててやり、レストランの経営も任せたという。そこはウエストバンクで最も人気のあるイタリアンレストランとなった。

カルロスは小説「ゴッドファーザー」を読んだことがあり、ある記者が感想を聞くと「あの本はおとぎ話だな、「眠れる森の美女」とか「七人の小人」みたいな」と語った。西海岸のギャングミッキー・コーエンとは交友関係にあった。

プロフィール

両親はシチリア出身で、結婚後すぐに仕事を求めチュニジアへ渡り、そこでカルロス・マルセロは生まれた。さらに良い生活を求め、ニューオーリンズへ移住、父ジョゼフ(旧名ジュゼッペ)はそこで農夫として働いた。ジョゼフとルイーズ(旧名ルイジア)のマルセロ夫婦はがむしゃらに働き、7人の息子と2人の娘を育て、カルロスは小さな子供の頃から親の農作業を手伝い、働き者の若者に成長したという。

14歳で学校をやめた頃から犯罪に手を染めるようになり、18歳には家を出て強盗を働き始める。1929年には3人の仲間とつるんで銀行強盗で7000ドル奪うことに成功。しかし、実家に金を隠していたところを弟のピーターが警察に通報してしまい、カルロスは逮捕され新聞に顔写真を掲載されることとなってしまった。それでもなおカルロスは強盗業を続けたが、このことから親や兄弟にも秘密や隠し事は教えてはいけないと学んだという。

20歳のとき重窃盗罪で9~12年の実刑判決を受けるが、父ジョゼフが州議会議員と親しい関係を結び、親しくなったところで長男を刑務所から出す取引をもちかけ、カルロスは4年服役しただけで出所できた。

その後、バーを買い取り、そこで黒人相手に酒やマリファナなどを売った。カルロスはこの地域を縄張りとするマフィアに上納金を払っていたため店に警察は近づかなかった。店は弟のピーターに任せており、たまに酒に酔った客が暴れたりすると、カルロスが外へつまみ出したという。カルロスは背は低いが、体格に勝る黒人を力でねじ伏せるほど喧嘩は強かったという。

1936年9月6日にジャクリーン(ジャッキー・トダロ)と結婚、その後すぐにジュークボックスとピンボール機を貸し出す会社を始めた。

1938年3月に客を装ったFBIの捜査官にマリファナを売ってしまい逮捕され、アトランタの連邦刑務所に入る。出所後、マリファナと酒の販売をやめてジュークボックスの仕事に専念した。さらにフランク・コステロの友人のダンディ・フィル・カステルと親しくなり、地元警察に賄賂を贈りながら、違法なスロット事業へのスロットマシーンの貸し出し事業も始めた。

1940年ごろにフランク・コステロマイヤー・ランスキーに認められ、ルイジアナでカジノのパートナーとなる。1945年12月4日にビバリー・カントリー・クラブという本格的なカジノをオープンさせ成功させる。カジノの中のナイト・クラブではジョー・E・ルイスやソフィー・タッカら大物タレントがショーを盛り上げたという。この頃にはジェファーソン郡の警察と政治家を操るほどの力を持っていた。

38歳のときに前ボスのサム・カローラが国外追放を受けたため、事実上のルイジアナのボスになった。

キューバ革命協議会(CRC)のニューオーリンズ支部のセルヒオ・アルカチャ・スミスに対して、カルロスは資金を提供。そのときにフィデル・カストロが打倒された際にはキューバでは事業許可を与えるという約束をした。後にCIAとマフィアが行なっていたカストロ暗殺計画には自分も加わっていたと、FBIのおとり捜査官のジョゼフ・ハウザーに語っているが、このことは、関わっていなくても情報を知っていた可能性は高い。なぜならば、カルロスはサント・トラフィカンテと親しく、2人ともキューバ人亡命者グループに資金援助していたからである。

1960年の大統領選でカルロスはリチャード・ニクソンに50万ドルを献金。また、リンドン・B・ジョンソンに年間少なくとも5万ドルは手渡したと推定されており、その見返りとして犯罪を取り締まる法案を委員会でつぶすのに協力したという。そのため、リンドン・ジョンソンの力を借りて、カルロスはダラスで思い通りに事業を行うことができた。

1961年、両親がシチリア出身で赤ん坊のときにニューオーリンズに来るがアメリカの市民権を申請してなかったため、グアテマラへ追放される。

中米のエルサルバドルとホンデュラスでは、ジャングルの中を歩いたり散々な思いをしたという。2ヶ月間中米で過ごし、その後、偽造入国ビザと航空券を手に入れアメリカへ密入国する。

1966年9月22日、ニューヨークのクィーンズのラ・ステラ・レストランでカルロ・ガンビーノトラフィカンテらと会議をしているところを警察に見つかり逮捕されたが、翌日13人全員で130万ドルの保釈金を払い保釈された。このことで、今までカルロスは自分はマフィアではないし、付き合いもないと言っていたが、ルイジアナの司法当局とFBIはカルロスがマフィアのボスであると疑っていたことが証明されたと確信したという。このときの会議は、ルイジアナのカルロスの後継者についての話し合いだったと言われている。

カルロスはルイジアナでは政治家に賄賂を送ることで、強大な政治的影響力を確保しており、州税務局をも牛耳っていたという。そのため、自分の思うように事業を進め、60年代後半にはマフィアのボスの中でもトップクラスの資産を築き上げていた。1970年ごろには、マフィア内でガンビーノに次ぐ権力を持っていたと言われている。

1976年に詐欺師でペテン師のジョゼフ・ハウザー(彼のことを信じきっていたカルロスは見事にだまされる)と知り合いになる。のちにハウザーが不正取引容疑で捕まったとき、彼は自分の減刑と引き換えに政府が行なっていたカルロス・マルセロに対するおとり捜査作戦BRILAB作戦に協力し、カルロスを有罪にすることになる。

1979年ごろにはチームスター労組(Teamsters)を牛耳っていたシカゴのボスでカルロスと仲の良いジョゼフ・アイウッパ(Joseph Aiuppa)と取引をし、月に100万ドルの利益を得ようとしていたが、このこともFBIの盗聴で明らかになり、結局計画は中止となる。

カルロスが刑務所に入った頃、弟のアンソニー、ヴィンセント、サミーは一家の事業の運営に専念していた。カルロスが逮捕・服役した影響は大きく、カルロスと組織の政治的影響力は崩れ、暗黒街での地位も落ちていき、それは弟たちのの事業を弱体化させていった。さらに、弟のサミー(サルヴァトーレ)が麻薬密売のマネーロンダリングの容疑で捕まるという事件も起きた。

その後、ニューオーリンズにはジョン・ゴッティのガンビーノ一家やフィラデルフィアのニコデモ・「リトル・ニッキー」・スカルフォのブルーノ=スカルフォ一家が進出してきた。

釈放後の1993年、ルイジアナ州メテリーでこの世を去った。

カルロス・マルセロ対アメリカ合衆国政府

1951年1月のニューオーリンズでのキーフォーバー委員会(Kefauver hearings)による聴聞会で証言を求められたが、ほとんどの質問に対して証言拒否をした。

1959年のマクレライン委員会ではロバート・ケネディと対決する。それ以前に国外追放処分を命じられていたが従わなかった。

国外追放

1961年4月4日にINS(移民局)の事務所に行くと、マルセロはグアテマラ市民でビザが切れていると言われ、ろくに荷物も金も持たされないままアメリカを追放、手錠をかけられ旅客機でグアテマラへ送られた。カルロスがいなくなった後でロバート・F・ケネディは「マルセロがアメリカにいないことを、非常にうれしく思う」と述べた。このことについてカルロスは「やつらは俺を誘拐して、グアテマラに捨てやがった」と語り、コケにされ名誉を傷つけられた。ジョン・F・ケネディ大統領選挙の際にはマフィアに対して借りを作っておきながら、大統領になったとたん、マルセロをグアテマラへ強制送還したことで、ケネディ家はマフィアを裏切り、宣戦布告したことになるため、これがマルセロがケネディ暗殺に関わったのではないかとの憶測を呼んでいる。また、以前からマルセロはケネディよりもリンドン・ジョンソンを支持していたため、そのことが原因ではないかという憶測も存在する。

アメリカへ帰国すると、すぐにINSに再度強制送還を命じられたが、これに対しカルロスの弁護団はすぐに控訴。ロバートが事前に通告もせず、偽造書類を使いカルロスを国外追放処分したことを違法行為だと告発した。

BRILAB作戦

ハウザーとFBIは保険会社の人間を装い、事務所や電話を24時間態勢で盗聴・録音するなど、FBI史上最大のマフィア大物を狙うおとり捜査作戦を実行。それまでカルロスは自分はマフィアではないし、組織犯罪とは関わりはないと言っていたが、自分はマフィアのメンバーであると断言している会話も録音された。

FBIによるおとり捜査の事実を知ったとき、カルロスはかなりのショックを受け、そのことを認めたくなかったという。特別捜査官のハロルド・ヒューズがカルロスの事務所を訪れ、おとり捜査官の名前を伝え「ちがう、彼らは私の手下だ」と言うと、自分が信じきっていた人間がFBIだったということを知り落胆した。カルロスはラリー・マンタギューとマイケル・ワックスの2人のおとり捜査官とハウザーをすっかり信じきっており、身近に置きすぎたため、自分のやっているほとんどのことをテープに録音され、裁判で決定的な証拠として流されてしまった。

裁判

1981年の夏にニューオーリンズで裁判が行なわれ、FBIが録音したテープが法廷で流され。それが決定的な証拠となり有罪判決を受け、その翌日にはロサンゼルスで起訴された。

ニューオーリンズで有罪を受けた後は、カルロスの事務所タウン&カントリーに訪れる訪問者は激減し、ルイジアナ州やマフィア内における影響力も崩れた。悪名高い詐欺師ハウザーに簡単にだまされたことは、ルイジアナの民衆の笑いのネタとなった。

1981年11月30日にロサンゼルスの法廷に出廷。ここでも自分が詐欺師のハウザーにだまされた内容のテープが流されるのを聞くという屈辱に耐えなければならなかった。12月11日、連邦刑務所への禁錮10~20年の判決が下り、 12月15日にはニューオーリンズでBRILAB裁判の判決を受け、7年の懲役と2万5000ドルの罰金刑を言い渡された。他にも連邦判事の買収をはかった共同謀議罪もあり、72歳のカルロス・マルセロは合計17年の懲役刑を受けた。

刑務所での生活

カルロスは最初スプリングフィールドの医療刑務所に収監(1983年6月)。彼は癌に侵されており、その治療のため1年近く医療センターにいた。ここは正規の刑務所に比べ医療刑務所ということで多くの面会者を迎えられるうえ、電話も多く掛けられ、外の世界と商談も出来た。

健康状態が良くなるとテキサス州テクサーカナにある連邦施設に移された。ここでは面会や電話も制限された。この頃、トラフィカンテがカルロスの命を狙っているという情報もあった。

1986年2月19日にテキサス州シーゴヴィル(Seagoville, Texas)刑務所に移る。ここはテキサカーナより監視のゆるい環境だった。

1986年6月2日にはさらに監視体制がゆるくダラスから数マイルしか離れていないフォートワースの刑務所に移った。この刑務所に移れたのは、マルセロが残っていた政治力を使ったという噂がある。カルロスはここでは模範因だったという。

1987年5月21日にテクサーカナの連邦刑務所に連行される。

1987年にテキサカーノ刑務所にいた78歳のカルロスに面会した人々は、カルロスがアルツハイマー病を患っているように見え、記憶力は衰え、方向感覚を失ったりしていたという。その後も、軽い脳卒中に見舞われるなどした。

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