Douglas MacArthur : ダグラス・マッカーサー

Douglas MacArthur (26 January 1880 – 5 April 1964) was an American five-star general and Field Marshal of the Philippine Army. He was Chief of Staff of the United States Army during the 1930s and played a prominent role in the Pacific theater during World War II. He received the Medal of Honor for his service in the Philippines Campaign, which made him and his father Arthur MacArthur Jr., the first father and son to be awarded the medal. He was one of only five men ever to rise to the rank of General of the Army in the US Army, and the only man ever to become a field marshal in the Philippine Army.
Raised in a military family in the American Old West, MacArthur was valedictorian at the West Texas Military Academy, and First Captain at the United States Military Academy at West Point, where he graduated top of the class of 1903. During the 1914 United States occupation of Veracruz, he conducted a reconnaissance mission, for which he was nominated for the Medal of Honor. In 1917, he was promoted from major to colonel and became chief of staff of the 42nd (Rainbow) Division. In the fighting on the Western Front during World War I, he rose to the rank of brigadier general, was again nominated for a Medal of Honor, and was awarded the Distinguished Service Cross twice and the Silver Star seven times.
From 1919 to 1922, MacArthur served as Superintendent of the U.S. Military Academy at West Point, where he attempted a series of reforms. His next assignment was in the Philippines, where in 1924 he was instrumental in quelling the Philippine Scout Mutiny. In 1925, he became the Army’s youngest major general. He served on the court martial of Brigadier General Billy Mitchell and was president of the American Olympic Committee during the 1928 Summer Olympics in Amsterdam. In 1930, he became Chief of Staff of the United States Army. As such, he was involved in the expulsion of the Bonus Army protesters from Washington, D.C. in 1932, and the establishment and organization of the Civilian Conservation Corps. He retired from the US Army in 1937 to become Military Advisor to the Commonwealth Government of the Philippines.
MacArthur was recalled to active duty in 1941 as commander of United States Army Forces in the Far East. A series of disasters followed, starting with the destruction of his air forces on 8 December 1941, and the invasion of the Philippines by the Japanese. MacArthur’s forces were soon compelled to withdraw to Bataan, where they held out until May 1942. In March 1942, MacArthur, his family and his staff left nearby Corregidor Island in PT boats and escaped to Australia, where MacArthur became Supreme Commander, Southwest Pacific Area. Upon his arrival in Australia, MacArthur gave a speech in which he famously promised “I shall return” to the Philippines. After more than two years of fighting in the Pacific, he fulfilled that promise. For his defense of the Philippines, MacArthur was awarded the Medal of Honor. He officially accepted Japan’s surrender on 2 September 1945, aboard USS Missouri anchored in Tokyo Bay, and oversaw the occupation of Japan from 1945 to 1951. As the effective ruler of Japan, he oversaw sweeping economic, political and social changes. He led the United Nations Command in the Korean War until he was removed from command by President Harry S. Truman on 11 April 1951. He later became chairman of the board of Remington Rand.

ダグラス・マッカーサー(1880年1月26日 – 1964年4月5日)は、アメリカの軍人、陸軍元帥、連合国軍最高司令官、国連軍司令官を務めた。コーンパイプがトレードマークであった。マッカーサーのカナ表記はマックアーサーとされている場合がある。

生涯

生い立ち

マッカーサー家は元々はスコットランド貴族の血筋で、キャンベル氏族の流れを汲み、スコットランド独立戦争でロバート1世に与して広大な領土を得たが、その後は領主同士の勢力争いに敗れ、没落したと伝えられている。1828年、当時少年だった祖父のアーサー・マッカーサー・シニアは家族に連れられてスコットランドからアメリカに移民し、マッカーサー家はアメリカ国民となった。なお、同じスコットランド系のフランクリン・ルーズベルトとは7つの家系、ウィンストン・チャーチルとは8つの家系を隔てた遠戚関係にあたる。
父アーサー・マッカーサー・ジュニアは16歳のころに南北戦争に従軍した根っからの軍人であり、南北戦争が終わって一旦は除隊し、祖父と同様に法律の勉強をしたが長続きせず、1866年には軍に再入隊している。1875年にニューオーリンズのジャクソン兵舎に勤務時に、ヴァージニア州ノーフォーク生まれでボルチモアの富裕な綿花業者の娘であったメアリー・ピンクニー・ハーディと結婚し、1880年に軍人である父の任地であったアーカンソー州リトルロックの兵器庫の兵営でマッカーサー家の三男としてダグラス・マッカーサーが誕生した。この頃は西部開拓時代の末期で、インディアンとの戦いのため、西部地区のあちらこちらに軍の砦が築かれており、マッカーサーが生まれて5ヶ月の時、一家はニューメキシコ州のウィンゲート砦に向かうこととなったが、その地で1883年に次男のマルコムが病死している。マルコムの病死は母メアリーに大きな衝撃を与え、残る2人の息子、特に三男ダグラスを溺愛するようになった。次いでフォート・セルデンの砦に父アーサーが転属となり、家族も付いていった。そのためダグラスは、幼少期のほとんどを軍の砦の中で生活することとなった。
その後も一家は全国の任地を転々とするが、1898年に米西戦争が始まると父アーサーは准将となり、スペインの植民地であったフィリピンに出征、マッカーサー家とフィリピンの深い縁の始まりとなった。戦争が終わり、フィリピンがスペインよりアメリカに割譲されると、少将に昇進し師団長になっていた父アーサーはその後に始まった米比戦争でも活躍し、在フィリピンのアメリカ軍司令官に昇進した。しかし、1892年に兄アーサーはアナポリス海軍兵学校に入学し、1896年には海軍少尉として任官し、弟ダグラスもウェストポイント陸軍士官学校を目指し勉強中だったことから、家族はフィリピンに付いていかなかった。
なお、ダグラスは幼少期、母メアリーによってフランスの風習に倣い、女子の格好をさせられていた。このことの人格形成への悪影響を危惧した父によって、陸軍士官学校に入学させられることになったとも言われている。

陸軍入隊

1896年、マッカーサーは西テキサス士官学校卒業後、ウェストポイントのアメリカ陸軍士官学校受験に必要な大統領や有力議員の推薦状が得られなかったため、母メアリーと共に有力政治家のコネが得られるマッカーサー家の地元ミルウォーキーに帰り、母メアリーが伝手を通じて手紙を書いたところ、下院議員シオボルド・オーチェンの推薦を得ることに成功した。その後、ウェストサイド高等学校に入学、1年半もの期間受験勉強し、1899年に750点満点中700点の高得点でトップ入学した。息子を溺愛し心配する母メアリーは、わざわざ学校の近くのクラニーズ・ホテルに移り住み、息子の学園生活に目を光らせることとした。結局マッカーサーが卒業するまで離れなかったため、「士官学校の歴史で初めて母親と一緒に卒業した」とからかわれることとなった。

当時のウェストポイントは旧態依然とした組織であり、上級生による下級生へのしごきという名のいじめが横行していた。父親が有名で、母親が近くのホテルに常駐し付き添っているという目立つ存在であったマッカーサーは、特に念入りにしごかれた。そのしごきは、長いウェストポイントの歴史の中で100以上も考案され、主なものでは「ボクシング選手による鉄拳制裁」「割れたガラスの上に膝をついて前屈させる」「火傷する熱さの蒸し風呂責め」「ささくれだった板の上を全裸でスライディングさせる」など凄まじいものであった。そのしごきが行われる兵舎は生徒たちから「野獣兵舎」と呼ばれていた。マッカーサーはよくそれらに耐えたが、最後は痙攣を起こして失神した。マッカーサーは失神で済んだが、新入生の中でしごきによる死亡者が出て問題化することになった。数か月後に軍法会議が開かれ、最も激しいしごきを受けたマッカーサーが証人として呼ばれたが、マッカーサーは厳しい追及にもかかわらず、しごきをした上級生の名を最後まで明かさず、全校生徒から尊敬を勝ち取っている。

在学中は成績抜群で、4年の在学期間中、3年は成績トップであった。スポーツも得意であったが、一番好んだスポーツは野球であった。バッティングが苦手で決して中心選手ではなかったが、積極果敢で頭を使ったプレーが得意であり「不退転のダグ」と呼ばれ、試合では活躍していた。しかし野球に熱中するあまり成績が落ちたため、4年生には野球をきっぱりと止め、1903年に在学期間中の2,470点満点のうち2,424.2点の得点率98.14%という成績を収め、94名の生徒の首席で卒業した。このマッカーサー以上の成績で卒業した者はこれまで2名しかいない(ロバート・リーがそのうちの一人である)。卒業後は陸軍少尉で任官した。

当時のアメリカ陸軍では工兵隊がエリート・グループとみなされていたので、マッカーサーは工兵隊を志願し、第3工兵大隊所属となり、アメリカの植民地であったフィリピンに配属され、長いフィリピン生活の始まりとなる。1905年に父が日露戦争の観戦任務のための駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となった。マッカーサーも副官として日本の東京で勤務した。マッカーサーは日露戦争を観戦したと自らの回想記に書いているが、彼が日本に到着したのは1905年10月で、ポーツマス条約調印後であり、記憶違いと思われる。その後マッカーサーと家族は日本を出発し、中国や東南アジアを経由してインドまで8か月かけて、各国の軍事基地を視察旅行しており、この時の経験がマッカーサーの後の軍歴に大きな影響を与えることになった。また、この旅行の際に日本で東郷平八郎、大山巌、乃木希典、黒木為楨ら日露戦争で活躍した司令官たちと面談し、永久に消えることがない感銘を受けたとしている。

その後アメリカに帰国したマッカーサーは1906年にセオドア・ルーズベルトの要請で、大統領軍事顧問の補佐官に任じられた。マッカーサーの手際のよい仕事ぶりを高く評価したルーズベルトはマッカーサーに「中尉、君は素晴らしい外交官だ。君は大使になるべきだ。」と称賛の言葉をかけている。順調な軍歴を歩んでいたマッカーサーであったが、1907年にミルウォーキーの地区工兵隊に配属されると、ミルウォーキーに在住していた裕福な家庭の娘ファニーベル・ヴァン・ダイク・スチュワートに心を奪われ、軍務に身が入っていないことを上官のウィリアム・V・ジャドソン少佐に見抜かれてしまい、ジャドソンは工兵隊司令官に対して「学習意欲に欠け」「勤務時間を無視して私が許容範囲と考える時間を超過して持ち場に戻らず」「マッカーサー中尉の勤務態度は満足いくものではなかった」と報告している。この報告に対してマッカーサーは激しく抗議したが、マッカーサーがミルウォーキーにいた期間は軍務に全く関心を持たず、スチュワートを口説くことだけに関心が集中していたことは事実であり、この人事評価は工兵隊司令部に是認された。これまで順調であったマッカーサーの軍歴の初めての躓きであり、結局は、ここまで入れ込んだ恋愛も実らず、今までの人生で遭遇したことのない大失敗に直面することとなった。自分の経歴への悪影響を懸念したマッカーサーは一念発起し、自分の評価を挽回するため工兵隊のマニュアル「軍事的破壊」を作成し工兵部隊の指揮官に提出したところ、このマニュアルは陸軍訓練学校の教材に採用されることとなった。このマニュアルによって挫折からわずか半年後にマッカーサーは挫折を克服し、再び高い評価を受けることとなった。その後、マッカーサーは1911年に大尉に昇進すると、第3工兵隊の副官及び工兵訓練学校の教官に任命され、1912年には陸軍省に栄転するなど急速に出世街道を進んでいくこととなった。

第一次世界大戦

1913年に始まったメキシコ革命でビクトリアーノ・ウエルタ将軍が権力を掌握したが、ウエルタ政権を承認しないアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領と対立することとなったため、ウエルタに忠誠を誓うメキシコ兵がアメリカ軍の海兵隊兵士を拘束し、タンピコ事件が発生した。アメリカはメキシコに兵士の解放と事件への謝罪、さらに星条旗に対する21発の礼砲を要求したが、メキシコは兵士の解放と現地司令官の謝罪には応じたが礼砲は拒否した。憤慨したウィルソンは大西洋艦隊第1艦隊司令フランク・F・フレッチャーにベラクルスの占領を命じた(アメリカ合衆国によるベラクルス占領)。

激しい市街戦により占領したベラクルスに レオナルド・ウッド 参謀総長は増援を送り込んだが、歩兵第2師団の第5旅団に偵察要員として、当時大尉であったマッカーサーを帯同させた。マッカーサーの任務は「作戦行動に有益なあらゆる情報を入手する」といった情報収集が主な任務であったが、マッカーサーはベラクルスに到着した第5旅団が輸送力不足により動きが取れないことを知り、メキシコ軍の蒸気機関車を奪取することを思い立った。マッカーサーはメキシコ人の鉄道労働者数人を買収すると、単身でベラクルスより65km離れたアルバラードまで潜入、内通者の支援により3両の蒸気機関車の奪取に成功した。その後、マッカーサー自身の証言では追撃してきた騎馬隊と激しい銃撃戦の上、マッカーサーは3発も銃弾が軍服を貫通するも無傷で騎馬隊を撃退し、見事にベラクルスまで機関車を持ち帰ってきた。マッカーサーはこの活躍により当然名誉勲章がもらえるものと期待していたが、第5旅団の旅団長がそのような命令を下していないと証言したこと、また銃撃戦の件も内通者のメキシコ人以外に証人はおらず信頼性に乏しいことより、名誉勲章の授与は見送られ、マッカーサーは失望することとなった。

その後にマッカーサーは陸軍省に戻り、陸軍長官副官・広報班長に就いた。1917年4月にアメリカがイギリスやフランス、日本などとともに連合国の一国として第一次世界大戦に参戦することが決まった。アメリカは戦争準備のため急きょ1917年5月に選抜徴兵法を制定したが、徴兵部隊が訓練を終えて戦場に派遣されるには1年は必要と思われた。

マッカーサーはニュートン・ディール・ベイカー陸軍長官と共にホワイトハウスへ行って、ウィルソンに「全米26州の州兵を強化し市民軍としてヨーロッパに派遣すべき」と提案した。ウィルソンはベイカーとマッカーサーの提案を採用しその実行を指示したが、どの州の部隊を最初にフランスに派遣すべきかが悩ましい問題として浮上した。ベイカーは州兵局長ウィリアム・A・マン准将とマッカーサーに意見を求めたが、マッカーサーは単独の州ではなくいくつかの州の部隊で師団を編成することを提案し、その提案に賛成したマンが「全26州の部隊で編成してはどうか」と補足すると、マッカーサーは「それはいいですね、そうすれば師団は全国に虹のようにかかることになります。」と言った。ベイカーはその案を採用し第42師団を編成した。師団長にはマン、そして少佐だったマッカーサーを二階級特進させ大佐とし参謀長に任命した。戦争に参加したくてたまらず、知り合いの記者に「真の昇進はフランスに行った者に与えられるであろう。」と思いのたけを打ち明けていたマッカーサーには希望通りの人事であった。第42師団は「レインボー師団」と呼ばれることになった。

第42師団は1918年2月に西部戦線に参戦した。マッカーサーが手塩にかけて育成した兵士は勇猛に戦い、多くの死傷者を出しながらも活躍した。アメリカが第一次世界大戦でフランスに派遣した部隊の中では、正規軍と海兵隊で編成された精鋭部隊歩兵第2師団に次ぐ貢献度とされた。マッカーサーも参謀長であるにもかかわらず、前線に出たがった。正規の軍装は身に着けず、ヘルメットを被らず常に軍帽を着用し、分厚いタートルネックのセーターに母メアリーが編んだ2mもある長いマフラーを首に巻き、光沢のあるカーフブーツを履いて、武器の代わりに乗馬鞭か杖を握りしめているという目立つ格好であった。

マッカーサーは前線の偵察を自ら直接行うこともあり、度々危険な目にあっている。車両に乗って偵察した際にはドイツ軍の機関銃に射撃され、車両は破壊されたがマッカーサーは奇跡的に無事であった。また少数のパトロール部隊を率いて夜間偵察した際には、ドイツ軍の毒ガス攻撃を受け、マッカーサー以外の兵士は全員戦死したということもあった。マッカーサーはその後、第42師団の第84旅団の旅団長に就任し、休戦前には一時的に師団長が不在となったため、准将ながら第42師団を率いたこともあった。マッカーサーは第一次世界大戦中に戦場において2回負傷し、外国の勲章も含めて15個の勲章を受章した。

このヨーロッパ派遣軍(AEF) の総司令官はジョン・パーシングであったが、パーシングは前線から遥か後方で指揮をとり、前線の野戦指揮官の具申をしばしば退けたことから、部下との間に軋轢が生じることもあったといわれ、特にマッカーサーはこれが原因でパーシングに批判的態度をとるようになる。

しかし、マッカーサーの母メアリーは、夫アーサーが在フィリピンのアメリカ軍司令官だったころに、当時大尉であったパーシングの面倒をみていたという伝手を頼って、マッカーサーを早く昇進させるようにと嘆願する手紙をたびたび送っていた。またベイカーにも同じような手紙を何通も送っている。そのおかげか、大戦中にマッカーサーは准将に昇進しており、メアリーはパーシングに「息子は貴方の期待を裏切らないはずです。」というお礼の手紙を送っている。また、大戦後にパーシングが参謀総長に就任すると、「息子を早く少将に昇進させて欲しい」との手紙も送っている。メアリーはマッカーサーを溺愛するあまり過保護であり、大戦前の1909年に夫アーサーが軍を退役した際には、マッカーサーの将来を憂いて、鉄道王エドワード・ヘンリー・ハリマンに「陸軍よりもっと出世が約束される仕事に就かせたい、貴方の壮大な企業のどこかで雇ってはもらえないだろうか」という手紙も送っていた。

戦間期

 大戦後にマッカーサーは、母校である陸軍士官学校の校長に就任した(1919年 – 1922年)。当時39歳と若かったマッカーサーは辣腕を振るい、士官学校の古い体質を改革して現代的な軍人を育成する場へと変貌させた。マッカーサーが在学中に痛めつけられたしごきの悪習も完全に廃止され、しごきの舞台となっていた野獣兵舎も閉鎖した。代わりに競技スポーツに力をいれ、競技種目を3種目(野球・フットボール・バスケットボール)から17種目に増やし、全員参加の校内競技大会を開催することで団結心が養われた。その指導方針は厳格であり、当時の生徒は「泥酔した生徒が沢山いる部屋にマッカーサーが入ってくると、5分もしないうちに全員の心が石のように正気にかえった。こんなことができたのは世界中でマッカーサーただ一人であっただろう。」と回想している。マッカーサーはその指導方針で士官候補生の間では不人気であり、ある日、士官候補生数人がマッカーサーに抗議にきたことがあったが、マッカーサーは候補生らの言い分を聞いた後に「日本との戦争は不可避である。その時になればアメリカは専門的な訓練を積んだ士官が必要となる。ウェスト・ポイントが有能な士官の輩出という使命をどれだけ果たしたかが戦争の帰趨を決することになる。」と言って聞かせると、候補生らは納得して、それ以降は不満を言わずに指導に従った。

その後、1922年に縁の深いフィリピンのマニラ軍管区司令官に任命され着任する。その際、同年結婚した最初の妻ルイーズ・クロムウェル・ブルックスを伴ってのフィリピン行きとなった。ルイーズは大富豪の娘で社交界の花と呼ばれていたため、2人の結婚は「軍神と百万長者の結婚」と騒がれた。この人事については、ルイーズがパーシング参謀総長の元愛人であり、それを奪ったマッカーサーに対する私怨の人事と新聞に書きたてられ、パーシングはわざわざ新聞紙面上で否定せざるを得なくなった。しかし、当時パーシングはルイーズと別れ20歳のルーマニア女性と交際しており、ルイーズはパーシングと別れた後、パーシングの副官ジョン・キュークマイヤーを含む数人の軍人と関係するなど恋多き女性であった。

このフィリピン勤務でマッカーサーは、後のフィリピン・コモンウェルス(独立準備政府)初代大統領マニュエル・ケソンなどフィリピンに人脈を作ることができた。翌1923年には関東大震災が発生、マッカーサーはフィリピンより日本への救援物資輸送の指揮をとっている。これらの功績が認められ、1925年にアメリカ陸軍史上最年少となる44歳での少将への昇進を果たし、米国本土へ転属となった。

少将になったマッカーサーに最初に命じられた任務は、友人であるウィリアム・ミッチェルの軍法会議であった。ミッチェルは航空主兵論の熱心な論者で、自分の理論の正しさを示すため、旧式戦艦や標的艦を航空機の爆撃により撃沈するデモンストレーションを行ない、第一次世界大戦中にアメリカに空軍の基盤となるべきものが作られたにもかかわらず、政府がその後の空軍力の発展を怠ったとして、厳しく批判していた。軍に対してもハワイ、オアフ島の防空体制を嘲笑う意見を公表したり、軍が航空隊の要求する予算を承認しないのは犯罪行為に等しい、などと過激な発言を繰り返し、この歯に衣を着せぬ発言が『軍への信頼を失墜させ』『軍の秩序と規律に有害な行為』と看做され、軍法会議にかけられることとなったのである。マッカーサーは、父アーサーとミッチェルの父親が同僚であった関係で、ミッチェルと少年時代から友達付き合いをしており、この軍法会議の判事となる任務が「私が受けた命令の中で一番やりきれない命令」と言っている。マッカーサーは判事の中で唯一「無罪」の票を投じたがミッチェルは有罪となり1926年に除隊した。その後、ミッチェルの予言通り航空機の時代が到来し、ミッチェルはその先見の明が認められ、死後10年後となる1946年に名誉回復されて、少将の階級と議会名誉黄金勲章が遺贈された。

1928年のアムステルダムオリンピックではアメリカ選手団団長となったが、アムステルダムで新聞記者に囲まれた際「我々がここへ来たのはお上品に敗けるためではない。我々は勝つために来たのだ。それも決定的に勝つために」と答えた。しかし、マッカーサーの意気込み通りとはならず、アメリカは前回のパリオリンピックの金メダル45個から22個に半減し、前評判の割には成績は振るわなかった。アメリカ国民の失望は大きく、選手団に連日非難の声が寄せられた。この大会では日本が躍進し、史上初の金メダルを2個獲得している。金メダルを三段跳で獲得した織田幹雄は終戦時に、マッカーサーがアメリカの将軍であったことに驚いたという。

マッカーサーがオリンピックでアムステルダムにいた頃、妻ルイーズがアメリカにて複数の男性と浮気をしていたと新聞のゴシップ欄で報じられた。ルイーズは新婚当初は知人を通じ、当時の陸軍長官ジョン・ウィンゲイト・ウィークスに、「ダグラスが昇進できるように一肌脱いでほしい、工作費はいくら請求してくれてもよい」と働きかけるほど、夫マッカーサーに尽くそうとしていたが、華美な生活を求めたルイーズとマッカーサーは性格が合わず、1929年には離婚が成立している。ルイーズとの夫婦生活での話は後にゴシップ化し、面白おかしくマスコミに取り上げられてマッカーサーを悩ませることになる。

離婚のごたごたで傷心のマッカーサーに、在フィリピン・アメリカ陸軍司令官として再度フィリピン勤務が命じられたが、マッカーサーはこの異動を「私にとってこれほどよろこばしい任務はなかった。」と歓迎している。マッカーサーは当時のアメリカ人としては先進的で、アジア人に対する差別意識が少なく、ケソンらフィリピン人エリートと対等に付き合い友情を深めた。また、アメリカ陸軍フィリピン人部隊(フィリピン・スカウト)の待遇を改善し、強化を図っている。この当時は日本が急速に勢力を伸ばし、フィリピンにも日本人の農業労働者や商売人が多数移民してきており、マッカーサーは脅威に感じて防衛力の強化が必要と考えていたが、アメリカ本国はフィリピン防衛に消極的で、フィリピンには17,000名の兵力と19機の航空機しかなく、マッカーサーはワシントンに「嘆かわしいほどに弱体」と強く抗議している。ケソンはこのようにフィリピンに対して親身なマッカーサーに共感し、ヘンリー・スティムソンの後任のフィリピン総督に就任することを願った。マッカーサーも、かつて父アーサーも就任した総督の座を希望しており、ケソンらに依頼しフィリピンよりマッカーサーの推薦状を送らせている。しかし工作は実らず、総督には前陸軍長官のドワイト・フィリー・デイヴィスが就任した。

私生活では、1929年にマニラで混血の女優エリザベス・イザベル・クーパーとの交際が始まったが、マッカーサー49歳に対し、イザベルは当時16歳であった。

陸軍参謀総長

1930年、大統領ハーバート・フーヴァーにより、アメリカ陸軍最年少の50歳で参謀総長に任命された。このポストは大将職であるため、少将から中将を経ずに、一時的に大将に昇進した。1933年から副官には、後の大統領ドワイト・D・アイゼンハワーが付いた。

前年の「暗黒の木曜日」に端を発した世界恐慌により、陸軍にも軍縮の圧力が押し寄せていたが、マッカーサーは議会など軍縮を求める勢力を「平和主義者とその同禽者」と呼び、それらは共産主義に毒されていると断じ、激しい敵意をむき出しにしていた。当時、アメリカ陸軍は世界で17番目の規模しかなく、ポルトガル陸軍やギリシャ陸軍と変わらなくなっていた。また兵器も旧式であり、火砲は第一次世界大戦時に使用したものが中心で、戦車は12両しかなかった。しかし議会はさらなる軍事費削減をせまり、マッカーサーの参謀総長在任時の主な仕事は、この小さい軍隊の規模を守ることになった。

 1932年に、退役軍人の団体が恩給前払いを求めてワシントンD.C.に居座る事件(ボーナスアーミー)が発生した。全国から集まった退役軍人とその家族は一時、22,000名にも上った。特に思想性もない草の根運動であったが、マッカーサーは、ボーナスアーミーは共産主義者に扇動され、連邦政府に対する革命行動を煽っている、と根拠のない非難をおこなった。退役軍人らはテント村を作ってワシントンD.Cに居座ったが、帰りの交通費の支給などの懐柔策で、少しずつであるが解散して行った。しかし、フーヴァーやマッカーサーが我慢強く待ったのにもかかわらず10,000名が残ったため、業を煮やしたフーヴァー大統領が警察と軍に、デモ隊の排除を命令した。マッカーサーはジョージ・パットン少佐が指揮する歩兵、騎兵、機械化部隊合計1,000名の部隊を投入し、非武装で無抵抗の退役軍人らを追い散らしたが、副官のアイゼンハワーらの忠告も聞かず、フーヴァーからの命令に反し、アナコスティア川を渡河して退役軍人らのテント村を焼き払い、退役軍人らに数名の死者と多数の負傷者を生じさせた。マッカーサーは夜の記者会見で、「革命のエーテルで鼓舞された暴徒を鎮圧した」と鎮圧行動は正当であると主張したが、やりすぎという非難の声は日増に高まることとなった。

マッカーサーは自分への非難の沈静化を図るため、ボーナスアーミーでの対応で非難する記事を書いたジャーナリストのドルビー・ピアソンとロバート・S・アレンに対し、名誉棄損の訴訟を起こすが、かえってジャーナリストらを敵に回すことになり、ピアソンらは当時関係が破局していたマッカーサーの恋人イザベルの存在を調べ上げると、マッカーサーが大統領や陸軍長官など目上に対して侮辱的な言動をしていたことや、私生活についての情報をイザベルより入手している。その後、マッカーサーとピアソンらは名誉棄損の訴訟を取り下げる代わりに、スキャンダルとして記事にしないことやイザベルに慰謝料を払うことで和解している。

フーヴァーボーナスアーミーでの対応の不手際や、恐慌に対する有効な政策をとれなかったため、フランクリン・ルーズベルト大統領選で歴史的大敗を喫して政界を去ったが、ルーズベルトフーヴァーと同様に、不況対策と称して軍事予算削減の方針であった。マッカーサーはルーズベルトに「大統領は国の安全を脅かしている、アメリカが次の戦争に負けて兵隊たちが死ぬ前に言う呪いの言葉は大統領の名前だ」と辞任覚悟で詰め寄るが、結局陸軍予算は削減された。マッカーサーはルーズベルトが進めるニューディール政策には終始反対の姿勢であったが、ルーズベルトニューディール政策の一つとして行った CCC(民間資源保存局)による失業者救済に対し、陸軍の組織力や指導力を活用して協力し、初期の成功に大きく貢献している。

マッカーサーは史上初の参謀総長再任を希望し、ルーズベルトもまた意見は合わないながらもその能力を高く評価しており、暫定的に1年間、参謀総長の任期を延長している。

フィリピン生活

1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻り、フィリピン軍の軍事顧問に就任した。アメリカは自国の植民地であるフィリピンを1946年に独立させることを決定したため、フィリピン国民による軍が必要であった。初代大統領にはケソンが予定されていたが、ケソンはマッカーサーの友人であり、軍事顧問の依頼はケソンによるものだった。マッカーサーはケソンから提示された、18,000ドルの給与、15,000ドルの交際費、現地の最高級ホテルでケソンがオーナーとなっていたマニラ・ホテルのスイート・ルームの滞在費に加えて秘密の報酬という破格の条件に興奮し、主に経済的な理由により軍事顧問団への就任を快諾している。

フィリピンには参謀総長時代から引き続いて、アイゼンハワーとジェームズ・D・オード両少佐を副官として指名し帯同させた。アイゼンハワーは行きたくないと考えており「参謀総長時代に逆らった私を懲らしめようとして指名した」と感じたと後に語っている。

フィリピン行きの貨客船「プレジデント・フーバー (S.S. President Hoover) 」には2番目の妻となるジーン・マリー・フェアクロスも乗っており、船上で2人は意気投合して、2年後の1937年に結婚している。また、母メアリーも同乗していたが、既に体調を崩しており長旅の疲れもあってか、マッカーサーらがマニラに到着した1か月後に亡くなっている。

1936年2月にマッカーサーは、彼のためにわざわざ設けられたフィリピン陸軍元帥に任命された。副官のアイゼンハワーは、存在もしない軍隊の元帥になるなど馬鹿げていると考え、マッカーサーに任命を断るよう説得したが聞き入れられなかった。後年ケソンに尋ねたところ、これはマッカーサー自身がケソンに発案したものだった。しかし肝心の軍事力整備は、主に資金難の問題で一向に進まなかった。マッカーサーは50隻の魚雷艇、250機の航空機、40,000名の正規兵と419,300名のゲリラで、攻めてくる日本軍に十分対抗できると夢想していたが、実際にアイゼンハワーら副官が軍事力整備のために2,500万ドルの防衛予算が必要と提言すると、ケソンとマッカーサーは800万ドルに削れと命じ、1941年には100万ドルになっていた。

軍には金はなかったが、マッカーサー個人はアメリカ資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。1936年1月17日にはマニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加したという。3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した。

1937年12月にマッカーサーは陸軍を退官する歳となり、アメリカ本土への帰還を望んだが、新しい受け入れ先が見つからなかった。そこでケソンがコモンウェルスで軍事顧問として直接雇用すると申し出し、そのままフィリピンに残ることとなった。アイゼンハワーら副官もそのまま留任となった。1938年1月にマッカーサーが軍事力整備の成果を見せるために、マニラで大規模な軍事パレードを計画した。アイゼンハワーら副官は、その費用負担で軍事予算が破産する、とマッカーサーを諫めるも聞き入れず、副官らにパレードの準備を命令した。それを聞きつけたケソンが、自分の許可なしに計画を進めていたことに激怒してマッカーサーに文句を言うと、マッカーサーは自分はそんな命令をした覚えがない、とアイゼンハワーらに責任を転嫁した。このことで、マッカーサーとアメリカ軍の軍事顧問幕僚たちとの決裂は決定的となり、アイゼンハワーは友人オードの航空事故死もあり、フィリピンを去る決意をした。1939年に第二次世界大戦が開戦すると、アメリカ本国に異動を申し出て、後に連合国遠征軍最高司令部 (Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force) 最高司令官となった。アイゼンハワーの後任にはリチャード・サザランド大佐が就いた。

太平洋戦争 (大東亜戦争)

現役復帰

 第二次世界大戦が始まってからも主に予算不足が原因で、フィリピン軍は強化が進まなかったが、日独伊三国同盟が締結され、日本軍による仏印進駐が行われると、ルーズベルトは強硬な手段を取り、石油の禁輸と日本の在米資産を凍結し、日米通商航海条約の失効もあって極東情勢は一気に緊張した。継続的な日米交渉による打開策模索の努力も続けられたが、日本との戦争となった場合、フィリピンの現戦力ではオレンジ計画を行うのは困難であるとワシントンは認識し、急遽フィリピンの戦力増強が図られることとなった。マッカーサーもその流れの中で、1941年7月にルーズベルトの要請を受け、中将として現役に復帰(7月26日付で少将として召集、翌日付で中将に昇進、12月18日に大将に昇進)した。それで在フィリピンのアメリカ軍とフィリピン軍を統合したアメリカ極東陸軍の司令官となった。

それまでフィリピンに無関心であったワシントンであったが、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長は「フィリピンの防衛はアメリカの国策である」と宣言し、アメリカ本国より18,000名の最新装備の州兵部隊を増援に送るとマッカーサーに伝えたが、マッカーサーは増援よりもフィリピン軍歩兵の装備の充実をマーシャルに要請し了承された。またアメリカ陸軍航空隊が『空飛ぶ要塞』と誇っていた新兵器の大型爆撃機B-17の集中配備を計画した。陸軍航空隊司令ヘンリー・アーノルド少将は「手に入り次第、B-17をできるだけ多くフィリピンに送れ」と命令し、計画では74機のB-17を配備し、フィリピンは世界のどこよりも重爆撃機の戦力が集中している地域となる予定であった。他にも急降下爆撃機A-24、戦闘機P-40など、当時のハワイよりも多い207機の航空機増援が約束され、その増援一覧表を持ってマニラを訪れたルイス・ブレアトン少将に、マッカーサーは興奮のあまり机から跳び上がり抱き付いたほどであった。

マーシャルはB-17を過信するあまり日本軍航空機を過少評価しており、「戦争が始まればB-17はただちに日本の海軍基地を攻撃し、日本の紙の諸都市を焼き払う」と言明している。B-17にはフィリピンと日本を往復する航続距離は無かったが、爆撃機隊は日本爆撃後、ソビエト連邦のウラジオストクまで飛んで、フィリピンとウラジオストクを連続往復して日本を爆撃すればいいと楽観的に考えていた。その楽観論はマッカーサーも全く同じで「12月半ばには陸軍省はフィリピンは安泰であると考えるに至るであろう(中略)アメリカの高高度を飛行する爆撃隊は速やかに日本に大打撃を与えることができる。もし日本との戦争が始まれば、アメリカ海軍は大して必要がなくなる。アメリカの爆撃隊は殆ど単独で勝利の攻勢を展開できる」という予想を述べているが、この自軍への過信と敵への油断は後にマッカーサーへ災いとして降りかかることになった。

また同時に、海軍のアジア艦隊の増強も図られ、潜水艦23隻が送られることとなり、アメリカ海軍で最大の潜水艦隊となった。アジア艦隊司令長官は、マッカーサーの知り合いでもあったトーマス・C・ハートであったが、マッカーサーは自分が中将なのにハートが大将なのが気に入らなかったという。そのためマッカーサーは「Small fleet, Big Admiral(=小さな艦隊のくせに海軍大将)」と、ハートやアジア艦隊を揶揄していた。

マッカーサーは戦力の充実により、従来の戦術を大きく転換することとした。現状のペースで戦力増強が進めば1942年4月には20万人のフィリピン軍の動員ができ、マーシャルの約束通り航空機と戦車が配備されれば、上陸してくる日本軍を海岸で阻止できるという目論みに基づく計画であった。当初のオレンジ計画では内陸での防衛戦を計画しており、物資や食糧は有事の際には強固に陣地化されているバターン半島に集結する予定であったが、マッカーサーの新計画では水際撃滅の積極的な防衛戦となるため、物資は海岸により近い平地に集結させられることとなった。この転換は後に、マッカーサーとアメリカ軍・フィリピン軍兵士を苦しめることとなったが、マッカーサーの作戦変更の提案にマーシャルは同意した。もっとも重要な首都マニラを中心とするルソン島北部にはジョナサン・ウェインライト少将率いるフィリピン軍4個師団が配置された。日本軍の侵攻の可能性が一番高い地域であったが、ウェインライトが守らなければいけない海岸線の長さは480kmの長さに達しており、任された兵力では到底戦力不足であった。しかし、マッカーサーはウェインライトに「どんな犠牲を払っても海岸線を死守し、絶対に後退はするな。」と命じていた。

マッカーサーが戦力の充実により防衛の自信を深めていたのとは裏腹に、フィリピン軍の状況は不十分であった。マッカーサーらが3年半も訓練してきたものの、その訓練は個々の兵士の訓練に止まり部隊としての訓練はほとんどなされていなかった。師団単位の訓練や砲兵などの他兵科との共同訓練の経験はほとんど無かった。兵士のほとんどが人生で初めて革靴を履いた為、多くの兵士が足を痛めており、テニス・シューズや裸足で行軍する兵士も多かった。また各フィリピン軍師団には部隊を訓練する為、数十人のアメリカ軍士官と100名の下士官が配属されていたが、フィリピン兵は英語をほとんど話せない為コミュニケーションが十分に取れず、また、フィリピン兵同士も部族が違えば言語が通じなかった、マッカーサーはフィリピン軍の実力に幻想を抱いてはいなかったが、陸軍が約束した大量の増援物資が到着し、部隊を訓練する時間が十分に取れればフィリピンの防衛は可能と思い始めていた。実際に1941年11月の時点で10万トンの増援物資がフィリピンに向かっており、100万トンがフィリピンへ輸送されるためアメリカ西海岸に埠頭に山積みされていた。

開戦

1941年12月8日、日本軍がイギリス領マラヤとハワイ州の真珠湾などに対して攻撃をおこない太平洋戦争 (大東亜戦争)が始まった。

12月8日フィリピン時間で3時30分に副官のサザーランドはラジオでパールハーバーの攻撃を知りマッカーサーに報告、ワシントンからも3時40分にマッカーサー宛て電話があったが、マッカーサーはパールハーバーで日本軍が撃退されると考え、その報告を待ち時間を無駄に浪費した。その間、アメリカ極東空軍の司令に就任していたブレアトン少将が、B-17をすぐに発進させ、台湾にある日本軍基地に先制攻撃をかけるべきと2回も提案したがマッカーサーはそのたびに却下した。

夜が明けた8時から、ブレアトンの命令によりB-17は日本軍の攻撃を避ける為に空中待機していたが、ブレアトンの3回目の提案でようやくマッカーサーが台湾攻撃を許可したため、B-17は11時からクラークフィールドに着陸し爆弾を搭載しはじめた。B-17全機となる35機と大半の戦闘機が飛行場に並んだ12時30分に日本軍の海軍航空隊の零戦84機と一式陸上攻撃機・九六式陸上攻撃機合計106機がクラークフィールドとイバフィールドを襲撃した。不意を突かれたかたちとなったアメリカ軍は数機の戦闘機を離陸させるのがやっとであったが、その離陸した戦闘機もほとんどが撃墜され、陸攻の爆撃と零戦による機銃掃射で次々と撃破されていった。この攻撃でB-17を18機、P-40とP-35の戦闘機58機、その他32機、合計108機を失い、初日で航空戦力が半減する事となった。その後も日本軍による航空攻撃は続けられ、12月13日には残存機は20機以下となり、アメリカ極東空軍は何ら成果を上げる事なく壊滅した。

人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのは(日本の同盟国の)ドイツ人だ」と信じ、その旨を報告した。また、「日本軍の陸軍、海軍機あわせて751機が飛来し、彼我の差は7対3という圧倒的不利な状況下にあった」と実際とは異なる報告をしている。

マーシャルの約束していた兵力増強にはほど遠かったが、マッカーサーは優勢な航空兵力と15万の米比軍で上陸する日本軍を叩きのめせると自信を持っていた。しかし、頼みの航空戦力は序盤であっさり壊滅してしまい、日本軍が12月10日にルソン島北部のアバリとビガン、12日には南部のレガスピに上陸してきた。マッカーサーはマニラから遠く離れたこれらの地域への上陸は、近いうちに行われる大規模上陸作戦の支援目的と判断して警戒を強化した。マッカーサーは日本軍主力の上陸を12月28日頃と予想していたが、本間雅晴中将率いる第14軍主力は、マッカーサーの予想より6日も早い22日朝にリンガエン湾から上陸。上陸してきた第14軍は第16師団と第48師団の2個師団だが、既に一部の部隊がルソン島北部に上陸しており、9個師団を有するルソン島防衛軍に対しては強力な部隊には見えなかったが、上陸してきた日本軍を海岸で迎え撃ったアメリカ軍とフィリピン軍は、訓練不足でもろくも敗れ去り、我先に逃げ出した。怒濤の勢いで進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、勝敗は決したと悟ると自分の考案した水際作戦を諦め、当初のオレンジ計画に戻すこととし、マニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で籠城するように命じた。ウェインライトの巧みな退却戦により、バターン半島にほとんどの戦力が軽微な損害で退却できたが、一方でマッカーサーの作戦により平地に集結させていた食糧や物資の輸送が、マッカーサー司令部の命令不徹底やケソンの不手際などでうまくいかず、設置されていた兵站基地には食糧や物資やそれを輸送するトラックまでが溢れていたが、これをほとんど輸送することができず日本軍に接収されてしまった。その内のひとつ、中部ルソン平野にあったカバナチュアン物資集積所だけでも米が5,000万ブッシェルもあったが、これは米比全軍の4年分の食糧にあたる量であった。

バターン半島には、オレンジ計画により40,000名の兵士が半年間持ち堪えられるだけの物資が蓄積されていたが、全く想定外の10万人以上のアメリカ軍・フィリピン軍兵士と避難民が立て籠もることとなった。マッカーサーは少しでも長く食糧をもたせるため、食糧の配給を半分にすることを命じたが、これでも4ヶ月はもたないと思われた。快進撃を続ける日本軍は第14軍主力がリンガエン湾に上陸してわずか11日後の1942年1月2日に、無防備都市宣言をしていたマニラを占領した。本間はマッカーサーが滞在していたマニラ・ホテルの最上階に日章旗を掲げさせたが、それを双眼鏡で確認したマッカーサーは、居宅としていたスイートルームの玄関ホールに飾っていた父アーサーが1905年に明治天皇から授与された花瓶に、本間は気が付いて頭を下げるんだろうか?と考えて含み笑いをした。

マッカーサーはマニラ陥落後、米比軍がバターン半島に撤退を完了した1月6日の前に、コレヒドール島のマリンタ・トンネル内に設けられた地下司令部に、妻ジーンと子供のアーサー・マッカーサー4世を連れて移動したが、コレヒドール島守備隊ムーア司令の奨めにも関わらず、住居は地下壕内ではなく地上にあったバンガロー風の宿舎とした。幕僚らは日本軍の爆撃の目標になると翻意を促したがマッカーサーは聞き入れなかった。マッカーサーは日本軍の空襲があると防空壕にも入らず、悠然と爆撃の様子を観察していた。ある時にはマッカーサーの近くで爆弾が爆発し、マッカーサーを庇った従卒の軍曹が身代わりとなって負傷することもあった。一緒にマリンタ・トンネルに撤退してきたケソンはそんなマッカーサーの様子を見て無謀だと詰ったが、マッカーサーは「司令官は必要な時に危険をおかさなければいけないこともある。部下に身をもって範を示すためだ。」と答えている。

マッカーサーは日本軍の戦力を過大に評価しており、6個師団が上陸してきたと考えていたが、実際は2個師団相当の40,000名であった。一方で、日本軍は逆にアメリカ・フィリピン軍を過小評価しており、残存兵力を25,000名と見積もっていたが、実際は80,000名以上の兵員がバターンとコレヒドールに立て籠もっていた。当初から、第14軍の2個師団の内、主力の機械化師団第48師団は、フィリピン攻略後に蘭印作戦に転戦する計画であったが、バターン半島にアメリカ・フィリピン軍が立て籠もったのにも関わらず、大本営は戦力の過小評価に基づき、計画通り第48師団を蘭印作戦に引き抜いてしまった。本間も戦力を過少評価していたので、1942年1月から第65旅団でバターン半島に攻撃をかけたが、敵が予想外に多く反撃が激烈であったため、大損害を被って撃退されている。その後、日本軍はバターンとコレヒドールに激しい砲撃と爆撃を加えたが、地上軍による攻撃は3週間も休止することとなった。

その間、日本軍との戦いより飢餓との戦いに明け暮れるバターン半島の米比軍は、収穫期前の米と軍用馬を食べ尽くし、さらに野生の鹿と猿も食料とし絶滅させてしまった。マッカーサーらは「2ヶ月にわたって日本陸軍を相手に『善戦』している」と、アメリカ本国では「英雄」として派手に宣伝され、生まれた男の子に「ダグラス」と名付ける親が続出したが、実際にはアメリカ軍は各地で日本軍に完全に圧倒され、救援の来ない戦いに苦しみ、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。ワシントンではフィリピンの対応に苦慮しており、洪水のように戦況報告や援軍要請の電文を打電してくるマッカーサーを冷ややかに見ていた。特にマッカーサーをよく知るアイゼンハワーは「色々な意味でマッカーサーはかつてないほど大きなベイビーになっている。しかし我々は彼をして戦わせるように仕向けている」と当時の日記に書き記している。

しかしその当時、バターン半島とコレヒドール島は攻勢を強める枢軸国に対する唯一の抵抗拠点となっており、イギリス首相ウィンストン・チャーチルが「マッカーサー将軍指揮下の弱小なアメリカ軍が見せた驚くべき勇気と戦いぶりに称賛の言葉を送りたい」と議会で演説するなど注目されていた。ワシントンも様々な救援策を検討し、12月28日にはフィリピンに向けてルーズベルトが「私はフィリピン国民に厳粛に誓う、諸君らの自由は保持され、独立は達成され、回復されるであろう。アメリカは兵力と資材の全てを賭けて誓う」と打電し、マッカーサーとケソンは狂喜したが、実際には重巡ペンサコーラに護衛されマニラへ大量の火砲などの物資を運んでいた輸送船団が、危険を避けてオーストラリアに向かわされるなど、救援策は具体的には何もなされなかった。

フィリピン脱出

 マッカーサーがコレヒドールに撤退した頃には、ハートのアジア艦隊は既にフィリピンを離れオランダ領東インドに撤退し、太平洋艦隊主力もパールハーバーで受けた損害が大きすぎてフィリピン救出は不可能であり、ルーズベルトと軍首脳はフィリピンはもう失われたものと諦めていた。マーシャルはマッカーサーが死ぬよりも日本軍の捕虜となることを案じていたが、それはマッカーサーがアメリカ国内で英雄視され、連日マッカーサーを救出せよという声が新聞紙面上を賑わしており、捕虜になった場合、国民や兵士の士気に悪い影響が生じるとともに、アメリカ陸軍に永遠の恥辱をもたらすと懸念があったからである。しかしマッカーサーは降伏する気はなく、1942年1月10日に本間から受け取った降伏勧告の書簡を黙殺しているが、それはアメリカ本国からの支援があると固く信じていたからであった。フィリピンへの支援を行う気が無いマーシャルら陸軍省は、この時点でマッカーサーをオーストラリアに逃がすことを考え始め、2月4日にマッカーサーにオーストラリアで新しい司令部を設置するように打診したがマッカーサーはこれを拒否、逆に海軍が太平洋西方で攻勢に出て、日本軍の封鎖を突破するように要請している。

コレヒドールの要塞に逃げ込んでしばらくすると、ケソンはルーズベルトがフィリピンを救援するつもりがない事を知って気を病み、マッカーサーに「この戦争は日本と米国の戦いだ。フィリピン兵士に武器を置いて降伏するよう表明する。日米はフィリピンの中立を承認してほしい。」と申し出た。マッカーサーはこの申し出をルーズベルトに報告するのを躊躇ったが、アメリカ本国がフィリピンを救援するつもりがないのなら、軍事的観点からこのケソンの申し出はアメリカにとって失うものは何もないと判断し、ルーズベルトに報告した。しかしこの報告を聞いたルーズベルトは迅速かつ強烈な「アメリカは抵抗の可能性ある限り(フィリピンから)国旗を降ろすつもりはない」という返事をケソンに行い、マッカーサーへはマーシャルを通じて「ケソンをフィリピンより退避させよ」との指示がなされた。 マッカーサーはケソン大統領に脱出を促すと共に、軍事顧問就任時に約束した秘密の報酬の支払いを要求した。話し合いの結果、マッカーサー50万ドル、副官らに14万ドル支払われる事となり、2月13日にお金を受け取る側のマッカーサー自らが副官サザーランドに命じ、マッカーサーらに64万ドルをフィリピンの国庫より支払うとするフィリピン・コモンウェルス行政命令第1号を作らせ、2月15日、ケソンはニューヨークのチェース・ナショナル銀行のフィリピン政府の口座からケミカル・ナショナル銀行のマッカーサーの個人口座に50万ドルを振り込む手続きをした。ケソンは2月20日にアメリカ軍の潜水艦ソードフィッシュでコレヒドールから脱出した。

ケソンは後に空路でアメリカ・ワシントンに向かい、かつてのマッカーサーの副官アイゼンハワーと再会し、マッカーサーらに大金を渡したようにアイゼンハワーにも功労金という名目で6万ドルを渡そうとしたが、アイゼンハワーは断固として拒否している。ケソンはその後、レイテへの進攻直前の1944年8月にニューヨークで病死し二度とフィリピンの土を踏むことは無かった。

ルーズベルトはマッカーサーに降伏の権限は与えていたが、陸軍省が画策していたオーストラリアへの脱出は考えていなかった。ある日の記者会見で「マッカーサー将軍にフィリピンから脱出を命じ全軍の指揮権を与える考えはないのか」との記者の質問に「いや私はそうは思わない、それは良く事情を知らない者が言うことだ」と否定的な回答をしている。これはルーズベルトの「そうすることは白人が極東では完全に面子を失うこととなる。白人兵士たるもの、戦うもので、逃げ出すことなどできない」という考えに基づくものであった。

最終的にルーズベルトが考えを変えたのは、チャーチルより、日本軍の快進撃で直接の脅威を受けることとなったオーストラリアが北アフリカ戦線に送っている3個師団の代わりに、アメリカがオーストラリアの防衛を支援して欲しいとの要請があり、その司令官としてチャーチルがマッカーサーを指名したためである。1942年2月21日、ルーズベルトチャーチルからの求めや、マーシャルら陸軍の説得を受け入れマッカーサーにオーストラリアへ脱出するよう命じた。マッカーサーは「私と私の家族は部隊と運命を共にすることを決意した」と命令違反を犯し軍籍を返上して義勇兵として戦おうとも考えたが、いったんオーストラリアに退き、援軍を連れてフィリピンに救援に戻って来ようという考えに落ち着き、ルーズベルトの命令を受けることとした。

マッカーサーが脱出を迷っている間にも戦局は悪化する一方で、飢餓と疫病に加えアメリカ・フィリピン軍の兵士を苦しめたのは、日本軍の絶え間ない砲撃による睡眠不足であった。もはやバターンの兵士すべてが病人となったと言っても過言ではなかったが、マッカーサーの司令部は嘘の勝利の情報をアメリカのマスコミに流し続けた。12月10日のビガン上陸作戦時にアメリカ軍航空機が軽巡洋艦名取を爆撃し至近弾を得たが、攻撃機が撃墜されたためその戦果が戦艦榛名撃沈と誤認して報告されると、マッカーサー司令部はこの情報に飛び付き大々的に宣伝した。その誤報を信じたルーズベルトによって戦死した攻撃機のパイロットケリー大尉には名誉勲章が授与されるなど、マッカーサー司令部は継続して「ジャップに大損害を与えた」と公表してきたが、3月8日には全世界に向けたラジオ放送で「ルソン島攻略の日本軍司令官本間雅晴は敗北のために面目を失い、ハラキリナイフでハラキリして死にかけている」と声明を出し、さらにその後「マッカーサー大将はフィリピンにおける日本軍の総司令官本間雅晴中将はハラキリしたとの報告を繰り返し受け取った。同報告によると同中将の葬儀は2月26日にマニラで執行された。」と公式声明を発表した。さらに翌日には「フィリピンにおける日本軍の新しい司令官は山下奉文である。」と嘘の後任まで発表する念の入れようであった。

嘘の公式発表をするのと並行してマッカーサーは脱出の準備を進めていた。コレヒドールにはアメリカ海軍の潜水艦が少量の食糧と弾薬を運んできた帰りに、大量の傷病者を脱出させることもなく金や銀を運び出していた。先に脱出に成功したケソンのようにその潜水艦に同乗するのが一番安全な脱出法であったが、マッカーサーは生まれついての閉所恐怖症であり、脱出方法は自分で決めさせてほしいとマーシャルに申し出、許可された。マッカーサーは、家族や幕僚達と共に魚雷艇でミンダナオ島に脱出する事とした。3月11日にマッカーサーと家族と使用人アー・チューが搭乗するPT-41とマッカーサーの幕僚(陸軍将校13名、海軍将校2名、技術下士官1名)が分乗する他3隻の魚雷艇はミンダナオ島に向かった。一緒に脱出した幕僚は『バターン・ギャング(またはバターン・ボーイズ)』と呼ばれ、この脱出行の後からマッカーサーが朝鮮戦争で更迭されるまで、マッカーサーの厚い信頼と寵愛を受け重用されることとなった。ルーズベルトが脱出を命じたのはマッカーサーとその家族だけで、幕僚らの脱出は厳密にいえば命令違反であったが、マーシャルは後にその事実を知って「驚いた」と言っただけで不問としている。

魚雷艇隊は800kmの危険な航海を無事に成し遂げ、ミンダナオ島陸軍司令官ウィリアム・シャープ准将の出迎えを受けたが、航海中にマッカーサーは手荷物を失い、到着時に所持していた荷物は就寝用のマットレスだけであった。ミンダナオ島には急造されたデルモンテ飛行場があり、マッカーサーはここからボーイングB-17でオーストラリアまで脱出する計画であったが、オーストラリアのアメリカ陸軍航空隊司令ジョージ・ブレット中将が遣したB-17は整備が行き届いておらず、出発した4機の内2機が故障、1機が墜落し、日本軍との空中戦で損傷した1機がようやく到着したという有様で、とても無事にオーストラリアに飛行できないと考えたマッカーサーは、マーシャルにアメリカ本土かハワイから新品のB-17を3機追加で遣すように懇願した結果、オーストラリアで海軍の管理下にあったB-17が3機追加派遣されることとなった。その3機も1機が故障したため、3月16日に2機がデルモンテに到着した。その2機にコレヒドールを脱出した一行と、先に脱出していたケソンが合流し詰め込まれた。乗り込んだ時のマッカーサーの荷物はコレヒドール脱出時より持ってきた就寝用マットレス1枚だけであったが、後にこのマットレスに金貨が詰め込まれていたという噂が広がることとなった。

オーストラリアまで10時間かけて飛行した後、一行は列車で移動し、3月20日にオーストラリアのアデレード駅に到着すると、マッカーサーは集まった報道陣に向けて次のように宣言した。

私はアメリカ大統領から、日本の戦線を突破してコレヒドールからオーストラリアに行けと命じられた。その目的は、私の了解するところでは、日本に対するアメリカの攻勢を準備することで、その最大の目的はフィリピンの救援にある。私はやってきたが、必ずや私は戻るだろう(I shall return)

この日本軍の攻撃を前にした敵前逃亡は、マッカーサーの軍歴の数少ない失態となり、後に「10万余りの将兵を捨てて逃げた卑怯者」と言われた。また、「I shall return」は当時のアメリカ兵の間では「敵前逃亡」の意味で使われた。それまでも、安全なコレヒドールに籠って前線にも出てこないマッカーサーを揶揄し「Dugout Doug(壕に籠ったまま出てこないダグラス)」というあだ名を付けられ、歌まで作られて兵士の間で流行していた。専用機にバターン号と名付けるなどバターン半島を特別な地としていたマッカーサーであったが、実際にコレヒドール要塞から出てバターン半島に来たのは1回しかなかった。

オーストラリアで南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任したマッカーサーは、オーストラリアにはフィリピン救援どころか、オーストラリア本国すら防衛できるか疑わしい程度の戦力しかないと知り愕然とした。その時のマッカーサーの様子を、懇意にしていたジャーナリストのクラーク・リーは「死んだように顔が青ざめ、膝はガクガクし、唇はピクピク痙攣していた。長い間黙ってから、哀れな声でつぶやいた「神よあわれみたまえ」」と回想している。

フィリピン救援は絶望的であったが、マッカーサーはオーストラリアに脱出しても、全フィリピン防衛の指揮権を残してきたウェインライトに渡すことはせず、6,400kmも離れたオーストラリアから現実離れした命令を送り続けた。それでも、いよいよバターンが日本軍に対して降伏しそうとの報告を受けたマッカーサーは、ウェインライトに「いかなる条件でも降伏するな、食糧・物資がなくなったら、敵軍を攻撃して食糧・物資奪取せよ。それで情勢は逆転できる。それができなければ残存部隊は山岳地帯に逃げ込みゲリラ戦を展開せよ。その時は私は作戦指揮のため、よろこんでフィリピンに戻るつもりである。」という現実離れした命令を打電するとマーシャルに申し出たが、却下されている。アメリカ陸軍省はウェインライトを中将に昇格させ、脱出したマッカーサーに代わって全フィリピン軍の指揮を任せようとしたが、フィリピンは複雑なアメリカ陸軍の司令部機構により、南西太平洋方面連合軍最高司令官(Commander IN Chief, SouthWest Pacific Area 略称 CINCSWPA)に新たに任命されたマッカーサーの指揮下になったため、マッカーサーは結局、フィリピン全土が陥落するまで命令を送り続けた。

日本軍第14軍は第4師団と香港の戦いで活躍した第1砲兵隊の増援を得ると総攻撃を開始し、4月9日にバターン半島守備部隊長エドワード・P・キング少将が降伏すると、マッカーサーは混乱し、怒り、困惑した。軍主力が潰えたウェインライトもなすすべなく、5月6日に降伏した。それを許さないマッカーサーは、残るミンダナオ島守備隊のシャープ准将に徹底抗戦を指示するが、シャープはウェインライトの全軍降伏のラジオ放送に従い降伏し、フィリピン守備隊全軍が降伏した。結局、フィリピンが日本軍の計画を大きく超過し、5ヶ月間も攻略に時間を要したのは、マッカーサーの作戦指揮が優れていたのではなく、大本営のアメリカ・フィリピン軍の戦力過少評価により第14軍主力の第48師団がバターン半島攻撃前に蘭印に引き抜かれたのが一番大きな要因となった。

マッカーサーはこの降伏に激怒し、マッカーサー脱出後も苦しい戦いを続けてきたウェインライトらを許さなかった。ウェインライトについては、終戦後にヘンリー・スティムソン陸軍長官マーシャルの執り成しもあり、降伏式典に同席させ、名誉勲章叙勲も認めたが、キングらについては終戦後もマッカーサーが赦さなかったため、昇進することもなく終戦直後に退役を余儀なくされている。

バターンで日本軍に降伏したアメリカ極東軍将兵は76,000名にもなり、『アメリカ戦史上最大の降伏』と言われたが、日本軍はバターン攻撃当初からバターンに籠ったアメリカ極東軍の兵士数を把握できておらず、予想外の捕虜に対し食糧も運搬手段も準備できていなかった。また降伏した将兵はマッカーサーの「絶体に降伏するな」という死守命令により、飢餓と病気で消耗しきっていたが、司令官の本間はそういう事情を十分知らされていない中で、バターン半島最南部からマニラ北方のサンフェルナンドまで90kmを徒歩で移動するという捕虜輸送計画を承認した。

徒歩移動中に消耗しきった捕虜たちは、マラリア、疲労、飢餓と日本兵の暴行や処刑で7,000名〜10,000名が死ぬこととなり、後にアメリカで『Bataan Death March(バターン死の行進)』と称されて、日本への敵愾心を煽ることとなった。マッカーサーは、数か月後に輸送中に脱出した兵士より『バターン死の行進』を聞かされると「近代の戦争で、名誉ある軍職をこれほど汚した国はかつてない。正義というものをこれほど野蛮にふみにじった者に対して、適当な機会に裁きを求めることは、今後の私の聖なる義務だと私は心得ている」という声明を発表するよう報道陣に命じたが、アメリカ本国の情報統制により、『バターン死の行進』をアメリカ国民が知ったのは、1944年1月27日にライフ誌の記事に掲載されてからであった。マッカーサーはこの情報統制に対し憤りを覚えたとしているが、この後、戦争が激化するにつれ、マッカーサー自らも情報統制するようになっていった。

オランダ領東インドに後退し、連合国軍艦隊と米英蘭豪 (ABDA) 艦隊を編成していたハートのアジア艦隊も1942年2月27日から3月1日のスラバヤ沖海戦・バタビア沖海戦で壊滅し、マッカーサーがオーストラリアに到着するまでにオランダ領東インドも日本軍に占領されていた。マッカーサーは敗戦について様々な理由づけをしたが、アメリカと連合国がフィリピンと西太平洋で惨敗したという事実は覆るものではなかった。しかし、アメリカ本国でのマッカーサーの評判は、アメリカ国民の愛国心の琴線に強く触れたこと、また、パールハーバー以降のアメリカと連合国がこうむった多大の損害に向けられたアメリカ人の激怒とも結びつき、アメリカ史上もっとも痛烈な敗北を喫した敗将にも拘わらず、英雄として熱狂的に支持された。その様子を見たルーズベルトは驚きながらも、マッカーサーの宣伝価値が戦争遂行に大きく役に立つと認識し利用することとし、1942年4月1日に名誉勲章を授与している。

反攻

1942年4月18日、南西太平洋方面のアメリカ軍、オーストラリア軍、イギリス軍、オランダ軍を指揮する南西太平洋方面最高司令官に任命され、日本の降伏文書調印の日までその地位にあった。

1943年3月のビスマルク海海戦(いわゆるダンピール海峡の悲劇)の勝利の報を聞き、第5航空軍司令官ジョージ・ケニーによれば、「彼があれほど喜んだのは、ほかには見たことがない」というぐらいに狂喜乱舞した。そうかと思えば、同方面の海軍部隊(後の第7艦隊)のトップ交代(マッカーサーの要求による)の際、「後任としてトーマス・C・キンケイドが就任する」という発表を聞くと、自分に何の相談もなく勝手に決められた人事だということで激怒した。

マッカーサーは連合軍の豊富な空・海戦力をうまく活用し、日本軍の守備が固いところを回避して包囲し補給路を断って、日本軍が飢餓で弱体化するのを待った。マッカーサーは陸海空の統合作戦を『三次元の戦略構想』、正面攻撃を避け日本軍の脆弱な所を攻撃する戦法を『蛙飛び作戦』と呼んでいた。日本軍は空・海でのたび重なるに敗戦に戦力を消耗し、制空権・制海権を失っていたため、マッカーサーの戦術に対抗できず、マッカーサーの思惑通り、「ニューギニアの戦い」では多くの餓死者・病死者を出すこととなった。この勝利は、フィリピンの敗戦で損なわれていたマッカーサーの指揮能力に対する評価と名声を大いに高めた。

I shall return

 1944年のフィリピンへの反攻作戦について、アメリカ陸軍参謀本部では「戦略上必要なし」との判断であったし、海軍もトップのアーネスト・キング作戦部長をはじめとしてそれに同意する意見が多かったが、マッカーサーは「フィリピン国民との約束」の履行を理由にこれを主張した。マッカーサーがこの作戦をごり押しした理由としては、フィリピンからの敵前逃亡を行った汚名をそそぐことと、多くの利権を持っていたフィリピンにおける利権の回復の2つがあったと言われている。ルーズベルトは1944年の大統領選を控えていたので、国民に人気があるマッカーサーの要求をしぶしぶ呑んだと言われている。

マッカーサーは10月23日にセルヒオ・オスメニャとともにレイテ島のレイテ湾に上陸した。マッカーサーは日本軍の狙撃兵が潜む中で戦場を見て回り、狙撃されたこともあったが、弾を避けるために伏せることもしなかったという。その後に旗艦としていた軽巡ナッシュビルの通信設備を使って、演説をフィリピン国民に向けて放送した。その演説の出だしは「フィリピン国民諸君、私は帰ってきた。」であったが、興奮のあまり手が震え声が上ずったため、一息入れた後に演説を再開した。日本の軍政の失敗による貧困や飢餓に苦しめられていた多くのフィリピン国民は、熱狂的にマッカーサーの帰還を歓迎した。

その後のレイテ島の戦いは、日本軍は台湾沖航空戦の過大戦果の虚報に騙され、大本営の横やりで現地の山下奉文司令官の反対を押し切り、レイテを決戦場としてアメリカ軍に決戦を挑むこととし、捷一号作戦を発動した。連合艦隊の主力がアメリカ輸送艦隊を撃滅、次いで陸軍はルソン島より順次増援をレイテに派遣し、上陸軍の撃滅を図ったが、レイテ沖海戦で連合艦隊が惨敗し制空権・制海権を失うと、増援も海上輸送中に輸送船ごと撃沈され、レイテ島の日本軍は孤立する中で圧倒的なアメリカ軍の火力と、飢えと病気に兵士は次々と倒れていった。

レイテを攻略したマッカーサーは、念願のルソン島奪還作戦を開始した。レイテで戦力を消耗した日本軍は海岸線での決戦を避け、山岳地帯での遅滞戦術をとることとした。司令官の山下は首都マニラを戦闘に巻き込まないために防衛を諦め、守備隊にも撤退命令を出したが、陸海軍の作戦不統一でそれは履行されず、海軍陸戦隊を中心とする日本軍14,000名がマニラに立て籠もった。マニラ奪還に焦るマッカーサーは、市内への重砲による砲撃を許可し、激しい市街戦の上で住宅地の80%、工場の75%、商業施設はほぼ全てが破壊された。マニラ市民の犠牲は10万人にも上ったが、その中には絶望的になった日本兵による残虐行為の他、アメリカ軍が支援したユサッフェ・ゲリラとフクバラハップ・ゲリラに手を焼いた日本軍のゲリラ討伐による犠牲者も含まれていた。武装ゲリラの跳梁に悩む日本軍であったが、ゲリラとその一般市民の区別がつかず、老若男女構わず殺害した。マッカーサーは日本軍のゲリラ討伐を「強力で無慈悲な戦力が野蛮な手段に訴えた」「軍人は敵味方問わず、弱き者、無武装の者を守る義務を持っている……(日本軍が犯した)犯罪は軍人の職業を汚し、文明の汚点となり」と激しく非難したが、その無武装で弱き者を武装させたのはマッカーサーであり、戦後にこの罪を問われて戦犯となった山下の裁判では、山下の弁護側から、マッカーサーの父アーサーがフィリピンのアメリカ軍の司令官であった時にフィリピンの独立運動をアメリカが弾圧した時の例を出され「血なまぐさい『フィリピンの反乱』の期間、フィリピンを鎮圧するために、アメリカ人が考案し用いられた方法を、日本軍は模倣したようなものである」「アメリカ軍の討伐隊の指揮官スミス准将は「小銃を持てる者は全て殺せ」という命令を出した」と指摘され、マッカーサーは激怒している。

日本軍はその後も圧倒的な火力のアメリカ軍と、数十万人にも膨れ上がったフィリピン・ゲリラに圧倒されながら絶望的な戦いを続け、ここでも大量の餓死者・病死者を出し、ルソン島山中に孤立することとなった。ニューギニアの戦いに続き、マッカーサーは決定的な勝利を掴み、その名声や威光はさらに高まった。しかし、フィリピン奪還をルーズベルトに直訴した際に、大きな損害を懸念したルーズベルトに対しマッカーサーは「大統領閣下、私の出す損害はこれまで以上に大きなものとはなりません……よい指揮官は大きな損失を出しません」と豪語していたが、アメリカ軍の第二次世界大戦の戦いの中では最大級の人的損害となる、戦闘での死傷79,104名、戦病や戦闘外での負傷93,422名という大きな損失を被った上に、何よりもマッカーサーが軍の一部と認定し多大な武器や物資を援助し、「フィリピン戦において我々はほとんどあらゆるフィリピンの市町村で強力な歴戦の兵力の支援を受けており、この兵力は我が戦線が前進するにつれて敵の後方に大打撃を加える態勢にあり、同時に軍事目標に近接して無数の大きい地点を確保して我が空挺部隊が降下した場合には、ただちに保護と援助を与えてくれる。」「私はこれら戦史にもまれな、偉大な輝かしい成果を生んだ素晴らしい精神力を、ここに公に認めて感謝の意を表する。」「北ルソンのゲリラ隊は優に第一線の1個師団の価値があった。」などとアメリカ軍と共に戦い、その功績を大きく評価していたフィリピン・ゲリラや、ゲリラを支援していたフィリピン国民の損失は甚大であった。しかし、「アメリカ軍17個師団で日本軍23個師団を打ち破り、日本軍の人的損失と比較すると我が方の損害は少なかった」と回顧録で自賛するマッカーサーには、フィリピン人民の被った損失は頭になかった。

6月28日にマッカーサーはルソン島での戦闘の終結宣言を行ない、「アメリカ史上もっとも激しく血なまぐさい戦いの一つ……約103,475平方kmの面積と800万人の人口を擁するルソン島全域はついに解放された。」と振り返ったが、結局はその後も日本軍の残存部隊はルソン島の山岳地帯で抵抗を続け、アメリカ陸軍第6軍の3個師団は終戦までルソン島に足止めされることとなった。

フィリピン戦中の12月に、マッカーサーは元帥に昇進している(アメリカ陸軍内の先任順位では、参謀総長のジョージ・マーシャル元帥に次ぎ2番目)。

ダウンフォール作戦

もう一人の太平洋戦域における軍司令となった太平洋方面軍司令官チェスター・ニミッツが硫黄島の戦いの激戦を制し、沖縄に向かっていた頃、次の日本本土進攻作戦の総司令官を誰にするかで悶着が起きていた。重病により死の淵にあったルーズベルトの命令で、陸海軍で調整を続けていたが決着を見ず、結局マッカーサーの西太平洋方面軍とニミッツの太平洋方面軍を統合し、全陸軍をマッカーサー、全海軍をニミッツ、戦略爆撃軍をカーチス・ルメイがそれぞれ指揮し、三者間で緊密に連携を取るという玉虫色の結論でいったんは同意を見た。しかし1945年4月12日にルーズベルトが死去すると、またこの問題は蒸し返され、ジェームズ・フォレスタル海軍長官によれば、マッカーサー側より日本本土進攻に際しては海軍は海上援護任務に限定し、マッカーサーに空陸全戦力の指揮権を与えるように要求してきたのに対し、当然、海軍と戦略爆撃軍は激しく抵抗した。マッカーサーは海軍の頑なな態度を見て「海軍が狙っているのは、戦争が終わったら陸軍に国内の防備をさせて、海軍が海外の良いところを独り占めする気だ。」「海軍は陸軍の手を借りずに日本に勝とうとしている」などと疑っていた。結局マッカーサーの強い申し出にもニミッツは屈せず、マッカーサーはこの要求を取り下げた。

かような指揮権における主導権争いと並行して、日本本土進攻作戦の詳細な作戦計画の作成が進められ、作戦名はダウンフォール作戦という暗号名が付けられた。ダウンフォール作戦は南部九州攻略作戦である「オリンピック作戦」と関東地方攻略作戦である「コロネット作戦」で構成されていたが、まず「オリンピック作戦」について4月12日に急逝したルーズベルトに代わって大統領に昇格したハリー・S・トルーマンが承認し、7月24日にポツダム会談において英国首相ウィンストン・チャーチルと再確認した。マッカーサーもジョージ・マーシャル参謀総長から「オリンピック作戦」についての意見を求められたが、マッカーサーは「私はこの作戦は、他に提言されているどんな作戦より、過剰な損耗を避け危険がより少ないものであること……また私はこの作戦は、可能なもののうちもっともその努力と生命において経済的であると考えている……私の意見では、オリンピック作戦を変更すべきであるとの考えが、いささかでも持たれるべきではない」と回答している。

マッカーサーの下には従来の太平洋のアメリカ陸軍戦力の他に、ドイツを打ち破ったヨーロッパ戦線の精鋭30個師団が向かっていた。「オリンピック作戦」ではマッカーサーは764,000名ものアメリカ軍上陸部隊を指揮することとなっていたが、指揮下となる予定であったコートニー・ホッジス大将などのヨーロッパ戦線の指揮官らには、元部下であるアイゼンハワーへの対抗意識からか「ヨーロッパの戦略は愚かにも敵の最強のところに突っ込んでいった。」「北アフリカに送られた戦力を自分に与えられていたら3ヶ月でフィリピンを奪還できた。」などと現実を無視した批判を行うなど評価が辛辣で、うまくやっていけるかは疑問符がついていた。

太平洋戦域でのアメリカ軍地上部隊の兵員の死傷率は、ヨーロッパ戦域を大きく上回っており、マッカーサーは日本軍との死闘による経験則から、「ダウンフォール作戦」の成り行きに関しては全く幻想を抱いておらず、ヘンリー・スティムソン陸軍長官に対し「アメリカ軍だけでも100万人の死傷者は覚悟しなければいけない。」と述べている。

しかし、広島市への原子爆弾投下直前までマッカーサーやニミッツら現場責任者にも詳細を知らされていなかった、マンハッタン計画による日本への原子爆弾投下とソ連対日参戦で、日本はポツダム宣言を受諾し、「オリンピック作戦」が開始されることはなかった。

連合国軍最高司令官 (SCAP)

 1945年8月14日に日本は連合国に対し、ポツダム宣言の受諾を通告した。戦争終結のための調印式が、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎(大本営)がイギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリアなどの連合国代表を相手に行なわれ、正式な降伏へ至った。かくしてただちに、日本はアメリカ軍やイギリス軍(イギリス連邦占領軍)、中華民国軍やフランス軍を中心とする連合軍の占領下に入ることとなる。

マッカーサーは、降伏文書の調印に先立つ8月30日に専用機「バターン号」で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。厚木に降り立ったマッカーサーは、記者団に対して第一声を以下のように答えた。

メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長い困難な道だった。しかしこれで万事終わったようだ。各地域における日本軍の降伏は予定通り進捗し、外郭地区においても戦闘はほとんど終熄し、日本軍は続々降伏している。この地区(関東)においては日本兵多数が武装を解かれ、それぞれ復員をみた。日本側は非常に誠意を以てことに当たっているやうで、報復や不必要な流血の惨を見ることなく無事完了するであらうことを期待する  — 朝日新聞(1945年8月31日)

その後、横浜の「ホテルニューグランド」に滞在し、降伏文書の調印式にアメリカ代表として立ち会った後に東京に入り、以後は連合国軍が接収した皇居前の第一生命館内の執務室で、1951年4月11日まで連合国軍最高司令官として日本占領に当たった。

日本占領方針

マッカーサーには大統領ハリー・S・トルーマンから米国史上空前の全権が与えられていた。

  • 天皇と日本政府の統治権はマッカーサーに隷属しており、その権力を思う通りに行使できる。我々と日本の関係は条件付きのものではなく、無条件降伏に基づいている。マッカーサーの権力は最高であり、日本側に何の疑念も抱かせてはならぬ。
  • 日本の支配は、満足すべき結果が得られれば、日本政府を通じて行われるべきである。もし必要であれば、直接行動してもよい。出した命令は武力行使も含め必要と思う方法で実施せよ。

連合国最高司令官政治顧問団特別補佐役としてマッカーサーを補佐していたウィリアム・ジョセフ・シーボルドは「物凄い権力だった。アメリカ史上、一人の手にこれほど巨大で絶対的な権力が握られた例はなかった。」と評した。

占領行政については、ドイツでの経験から直接統治ではなく、既存の日本の体制を利用した間接統治のほうが円滑に進むとの現実的判断に落ち着いた。既存の体制の維持となると避けて通れないのが、天皇制の存置と昭和天皇の戦争責任問題であるが、早くも終戦1年6か月前の1944年2月18日の国務省の文書『天皇制』で「天皇制に対する最終決定には連合国の意見の一致が必要である」としながらも「日本世論は圧倒的に天皇制廃止に反対である……強権をもって天皇制を廃止し天皇を退位させても、占領政策への効果は疑わしい。」と天皇制維持の方向での意見を出している。また1945年に入ると、日本の占領政策を協議する国務・陸・海軍3省調整委員会(SWNCC)において「占領目的に役立つ限り天皇を利用するのが好ましい」「天皇が退位しても明らかな証拠が出ない限りは戦犯裁判にかけるべきではない」という基本認識の元で協議が重ねられ、戦争の完全終結と平穏な日本統治のためには、天皇の威信と天皇に対する国民の親愛の情が不可欠との知日派の国務長官代理ジョセフ・グルーらの進言もあり、当面は天皇制は維持して昭和天皇の戦争責任は不問とする方針となった。これはマッカーサーも同意見であったが、ほかの連合国や対日強硬派やアメリカの多くの国民が天皇の戦争責任追及を求めていたため、連合国全体の方針として決定するまでには紆余曲折があった。

戦争犯罪の追及

まずマッカーサーが着手したのは日本軍の武装解除であったが、軍事力のほとんどが壊滅していたドイツ国防軍と異なり、日本軍は内外に154個師団700万名の兵力が残存していた。難航が予想されたが、陸海軍省などの既存組織を利用することにより平穏無事に武装解除は進み、わずか2カ月で内地の257万名の武装解除と復員が完了した。

次に優先されたのは戦争犯罪人の逮捕で、終戦前からアメリカ陸軍防諜部隊(略称CIC)がリストを作成、さらに国務省の要求する人物も加え、9月11日には第一次A級戦犯38名の逮捕に踏み切った。しかし東條英機が自殺未遂、小泉親彦と橋田邦彦2名が自殺した。最終的に逮捕したA級戦犯は126名となったが、戦犯逮捕を指揮したCIC部長ソープは、遡及法でA級戦犯を裁くことに疑問を感じ、マッカーサーに「戦犯を亡命させてはどうか?」と提案したことがあったが、マッカーサーは「そうするためには自分は力不足だ、連合軍の連中は血に飢えている」と答えたという。

A級戦犯に同情的だったマッカーサーも、フィリピン戦に関する戦争犯罪訴追にはフィリピン国民に「戦争犯罪人は必ず罰する」と約束しただけに熱心であった。マッカーサー軍をルソン山中に終戦まで足止めし「軍事史上最大の引き伸ばし作戦」を指揮した山下奉文大将と、太平洋戦争序盤にマッカーサーに屈辱を与えた本間雅晴中将の2人の将軍については、戦争終結前から訴追のための準備を行っていた。

山下は1945年9月3日にフィリピンのバギオにて降伏調印式が終わるや否や、そのまま逮捕され投獄された。山下は「一度山を下りたら、敵は二度と釈放はすまい」と覚悟はしていたが、逮捕の罪状であるマニラ大虐殺などの日本軍の残虐行為については把握していなかった。しかしマッカーサーが命じ、西太平洋合衆国陸軍司令官ウィリアム・D・ステイヤー中将が開廷したマニラ軍事法廷は、それまでに判例もなかった、部下がおこなった行為はすべて指揮官の責任に帰するという「指揮官責任論」で死刑判決を下した。死刑判決を下した5人の軍事法廷の裁判官は、マッカーサーやステイヤーの息のかかった法曹経験が全くない職業軍人であり、典型的なカンガルー法廷(似非裁判:法律を無視して行われる私的裁判)であった。

また、マニラについてはその犠牲者の多くが、日本軍の残虐行為ではなくアメリカ軍の砲爆撃の犠牲者であったという指摘もあり、山下に全責任を負わせ、アメリカ軍のおこなったマニラ破壊を日本軍に転嫁するためとの見方もある。マッカーサーは山下の絞首刑に際して、より屈辱を味わわせるように「軍服、勲章など軍務に関するものを全て剥ぎ取れ」と命令し、山下は囚人服のままマンゴーの木で絞首刑を執行された。

本間についても同様で、本人が十分に把握していなかった、いわゆる「バターン死の行進」の責任者とされた。マッカーサーが死の行進の責任者を罰することを「聖なる義務」と意気込んでいたことと、マッカーサーを唯一破った軍人であり、なによりその首を欲していたため、マッカーサーにとっては一石二鳥の裁判となった。本間の妻・富士子は、本間の弁護士の1人フランク・コーダ大尉の要請により、本間の人間性の証言のため法廷に立つこととなった。軍事法廷が開廷されているマニラへ出発前に、朝日新聞の取材に対し富士子は「私は決して主人の命乞いに行くという気持ちは毛頭ございません。本間がどういう人間であるか、飾り気のない真実の本間を私の力で全世界の人に多く知って頂きたいのです。」と答えていたが、結局は山下裁判と同様にカンガルー法廷により、判決は死刑であった。判決後富士子は、弁護士の一人ファーネス大尉と連れだってマッカーサーに会った。マッカーサーの回想では、富士子は本間の命乞いに来たということにされているが、富士子によると「夫は敵将の前で妻が命乞いをするような事を最も嫌うので命乞いなんかしていない。後世のために裁判記録のコピーがほしいと申し出たが、マッカーサーからは女のくせに口を出すなみたいな事を言われ拒否された」とのことであった。このやり取りのおかげかは不明だが、マッカーサーの命令により本間は山下のように不名誉な処刑ではなく、軍服を着用の上で銃殺刑に処せられた。死刑執行後に富士子は「裁判は正に復讐的なものでした。名目は捕虜虐殺というものでしたが、マッカーサー元帥の輝かしい戦績に負け戦というたった一つの汚点を付けた本間に対する復讐裁判だったのです。」と感想を述べている。

後にこの裁判は、アメリカ国内でも異論が出され「法と憲法の伝統に照らして、裁判と言えるものではない」「法的手続きをとったリンチ」などとも言われた。

1949年に山下の弁護人の内の1人であったA・フランク・リール大尉が山下裁判の真実をアメリカ国民に問うために『山下裁判』という本を出版した。日本でも翻訳出版の動きがあったがGHQが許可せず、日本で出版されたのはGHQの占領が終わった1952年であった。

昭和天皇との初会談

GHQは、支配者マッカーサーを全日本国民に知らしめるため、劇的な出来事が必要と考え、昭和天皇の会談を望んでいた。昭和天皇もマッカーサーとの会談を望んでおり、どちらがイニシアチブをとったかは不明であるが、天皇よりアメリカ側に会見を申し出た。マッカーサー個人は「天皇を会談に呼び付ければ日本国民感情を踏みにじることになる……私は待とう、そのうち天皇の方から会いに来るだろう」と考えていたということで、マッカーサーの要望通り昭和天皇側より会見の申し出があった時には、マッカーサーと幕僚たちは大いに喜び興奮した。昭和天皇からは目立つ第一生命館ではなく、駐日アメリカ大使公邸で会談したいとの申し出であった。しかし日本側の記録によると、外務大臣に就任したばかりの吉田茂が、第一生命館でマッカーサーと面談した際に、マッカーサーが何か言いたそうに「モジモジ」していたので、意を汲んで昭和天皇の訪問を申し出、マッカーサー側から駐日アメリカ大使館を指示されたとのことで、日米で食い違っている。

1945年9月27日、大使館公邸に訪れた昭和天皇をマッカーサーは出迎えはしなかったが、天皇の退出時には、自ら玄関まで天皇を見送るという当初予定になかった行動を取って好意を表した。会談の内容については日本とアメリカ両関係者より、内容の異なる様々な証言がなされており、詳細なやり取りは推測の域を出ないが、マッカーサーと昭和天皇は個人的な信頼関係を築き、その後合計11回にわたって会談を繰り返し、マッカーサーは昭和天皇は日本の占領統治のために絶対に必要な存在であるという認識を深める結果になった。

その際に略装でリラックスしているマッカーサーと、礼服に身を包み緊張して直立不動の昭和天皇が写された写真が翌々日、29日の新聞記事に掲載されたため、当時の国民にショックを与えた。歌人の斎藤茂吉はその日の日記に「ウヌ!マッカーサーノ野郎」と書き込むほどであったが、多くの日本国民はこの写真を見て日本の敗戦を改めて実感し、GHQの目論見通り、日本の真の支配者は誰なのか思い知らされることとなった。

連合国軍による占領下の日本では、GHQ/SCAPひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉が流行った。「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。また、東條英機が横浜の野戦病院(現横浜市立大鳥小学校)に入院している際にマッカーサーが見舞いに訪れ、後に東條は重光葵との会話の中で「米国にも立派な武士道がある」と感激していたという。

報道管制

いわゆる『バターン死の行進』のアメリカ本国の報道管制を激しく非難したマッカーサーであったが、日本統治では徹底した報道管制を行っている。バギオで戦犯として山下が逮捕された直後、9月16日の日本の新聞各紙に一斉に「比島日本兵の暴状」という見出しで、フィリピンにおける日本兵の残虐行為に関する記事が掲載された。これはGHQの発表を掲載したもので、山下裁判を前にその意義を日本国民に知らしめ、裁判は正当であるとする周到な世論工作であった。毎日新聞の森正蔵(東京本社社会部長)によれば、これはマッカーサーの司令部から情報局を通じて必ず新聞紙に掲載するようにと命令され、記事にしない新聞は発行部数を抑制すると脅迫されていたという。

実際に朝日新聞はこのGHQの指示について、「今日突如として米軍がこれを発表するに至った真意はどこにあるかということである。(連合軍兵士による)暴行事件の発生と、日本軍の非行の発表とは、何らかの関係があるのではないか」と占領開始以降に頻発していた連合軍兵士による犯罪と、フィリピンにおける日本軍の暴虐行為の報道指示との関連性を疑う論説を記事に入れたところ、マッカーサーは朝日新聞を1945年9月19日と20日の2日間の発行停止処分としている。

その後、マッカーサーと昭和天皇の初面談の際に撮影された写真が掲載された新聞について、内務大臣の山崎巌が畏れ多いとして新聞の販売禁止処分をとったが、連合国軍最高司令官総司令部の反発を招くことになり、東久邇宮内閣の退陣の理由のひとつともなった。これをきっかけとしてGHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN-66)を指令し、日本政府による検閲を停止させ、GHQが検閲を行うこととし、日本の報道を支配下に置いた。また、連合国と中立国の記者のために日本外国特派員協会の創設を指示した。

マッカーサーの日本のマスコミに対する方針を如実に表しているのは、同盟通信社が行った連合軍に批判的な報道に対し、1945年9月15日にアメリカ陸軍対敵諜報部の民間検閲主任ドナルド・フーバー大佐が、河相達夫情報局総裁、大橋八郎日本放送協会会長、古野伊之助同盟通信社を呼びつけて申し渡した通告であるが「元帥は報道の自由に強い関心を持ち、連合軍もそのために戦ってきた。しかし、お前たちは報道の自由を逸脱する行為を行っており、報道の自由に伴う責任を放棄している。従って元帥はより厳しい検閲を指令された。元帥は日本を対等とは見做していないし、日本はまだ文明国入りする資格はない、と考えておられる。この点をよく理解しておけ。新聞、ラジオに対し100%の検閲を実施する。嘘や誤解を招く報道、連合軍に対するいかなる批判も絶対許さない。」と強い口調で申し渡している。

連合軍占領下の日本

マッカーサーの強力な指導力の下で、五大改革などの日本の民主化が図られ、日本国憲法が公布された。

大統領選

連合国軍最高司令官としての任務期間中、マッカーサー自身は1948年の大統領選挙への出馬を望んでいた。しかし、現役軍人は大統領になれないことから、占領行政の早期終結と凱旋帰国を望んだ。そのため、1947年からマッカーサーはたびたび「日本の占領統治は非常にうまく行っている」「日本が軍事国家になる心配はない」などと声明を出し、アメリカ本国へ向かって日本への占領を終わらせるようメッセージを送り続けた。

1948年3月9日、マッカーサーは候補に指名されれば大統領選に出馬する旨を声明した。この声明に最も過敏に反応したのは日本人であった。町々の商店には「マ元帥を大統領に」という垂れ幕が踊ったり、日本の新聞はマッカーサーが大統領に選出されることを期待する文章であふれた。そして、4月のウィスコンシン州の予備選挙でマッカーサーは共和党候補として登録された。

マッカーサーを支持している人物には、軍や政府内の右派を中心に、シカゴ・トリビューン社主のロバート・R・マコーミックや、はり新聞社主のウィリアム・ランドルフ・ハーストがいた。『ニューヨーク・タイムズ』紙もマッカーサーが有力候補であることを示し、ウィスコンシンでは勝利すると予想していたが、27名の代議士のうちでマッカーサーに投票したのはわずか8名と惨敗、結果はどの州でも1位をとることはできなかった。5月10日には陸軍参謀総長になっていたアイゼンハワーが来日したが、マッカーサーと面談した際に「いかなる軍人もアメリカの大統領になろうなどと野心を起こしてはならない」と釘を刺している。しかしマッカーサーは、そのアイゼンハワーのその忠告に警戒の色を浮かべ、受け入れることはなかった。

6月の共和党大会では、マッカーサーを推すハーストが数百万枚のチラシを準備し、系列の新聞『フィラデルフィア・インクワイアラー』の新聞配達員まで動員し選挙運動をおこない、マッカーサーの応援演説のために、日本軍の捕虜収容所から解放された後も体調不調に苦しむジョナサン・ウェインライトも呼ばれたが、第1回投票で1,094票のうち11票しか取れず、第2回で7票、第3回で0票という惨敗を喫し、結局第1回投票で434票を獲得したトーマス・E・デューイが大統領候補に選出された。

日本では、マッカーサーへの批判記事は検閲されていたため、選挙戦の情勢を正確に伝えることができなかった。『タイム』誌は「マッカーサーを大統領にという声より、それを望まないと言う声の方が大きい」と既に最初のウィスコンシンの惨敗時に報道していたが、日本ではマッカーサーより有力候補者であったアーサー・ヴァンデンバーグやロバート・タフトの影は急激に薄くなっていった、などと事実と反する報道がなされていた。その結果、多くの日本国民が共和党大会での惨敗に驚かされた。その光景を見た『ニューヨーク・タイムズ』は「日本人の驚きは多分、一段と大きかったことだろう。……日本の新聞は検閲によって、アメリカからくるマッカーサー元帥支持の記事以外は、その発表を禁じられていたからである。そのため、マッカーサー元帥にはほとんど反対がいないのだという印象が与えられた。」と報じている。

大統領選の結果、大統領に選ばれたのは現職トルーマンであった。マッカーサーとトルーマンは、太平洋戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、つまりそれは、もはやアメリカの国民や政治家の視線を気にせずに日本の占領政策を施行できることを意味しており、日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。イギリスやソ連、中華民国などの他の連合国はこの時点において、マッカーサーの主導による日本占領に対して異議を唱えることが少なくなっていた。

朝鮮戦争

第二次世界大戦後の極東情勢

日本での権威を揺るぎないものとしたマッカーサーであったが、アメリカの対極東戦略については蚊帳の外であった。マッカーサーは蒋介石に多大な援助を与え、中国共産党との国共内戦に勝利させ、中国大陸に親米的な政権を確保するという構想を抱いていたが、蒋介石は日中戦争時から、アメリカから多大な援助を受けていたにも関わらず、日本軍との全面的な戦争を避け続け、数千万ドルにも及ぶ援助金を横領するなど腐敗しきっており、中国民衆の支持を失いつつあった。民衆の支持を受けた中国共産党がたちまち支配圏を拡大していくのを見て、1948年にはトルーマン政権は蒋介石を見限っており、中国国民党を救う努力を放棄しようとしていた。マッカーサーはこのトルーマン政権の対中政策に反対を唱えたが、アメリカの方針が変わることはなく、1949年に北京を失った国民党軍は、1949年年末までには台湾に撤退することとなり、中国本土は中国共産党の毛沢東が掌握することとなった。

共産主義陣営との対立は、日本から解放されたのちに38度線を境界線としてアメリカとソ連が統治していた朝鮮半島でも顕在化することとなり、1948年8月15日、アメリカの後ろ盾で李承晩が大韓民国の成立を宣言。それに対しソ連から多大な援助を受けていた金日成が9月9日に朝鮮民主主義人民共和国を成立させた。マッカーサーは日本統治期間中にほとんど東京を出ることがなかったにもかかわらず、大韓民国の成立式典にわざわざ列席し、李承晩との親密さをアピールしたが、トルーマン政権の対朝鮮政策は対国民党政策と同様に消極的なものであった。朝鮮半島はアメリカの防衛線を構成する一部分とは見なされておらず、アメリカ軍統合参謀本部は「朝鮮の占領軍と基地とを維持するうえで、戦略上の関心が少ない」と国務省に通告するほどであった。

成立式典に列席して韓国との関係をアピールしたマッカーサーであったが、朝鮮情勢についてはトルーマンと同様にあまり関心はなかった。在朝鮮アメリカ軍司令官ジョン・リード・ホッジは度々マッカーサーに韓国に肩入れしてほしいと懇願していたが、マッカーサーの返事は「本職(マッカーサー)は貴職(ホッジ)に聡明な助言をおこなえるほどには現地の情勢に通じていない。」という素っ気ないものであった。業を煮やしたホッジが東京にマッカーサーに面会しに来たことがあったが、マッカーサーはホッジを何時間も待たせた挙句「私は韓国に足跡を残さない、それは国務省の管轄だ」と韓国の面倒は自分で見よと命じている。マッカーサーは李承晩らに、大韓民国の成立式典で「貴国とは1882年以来、友人である」、「アメリカは韓国が攻撃された際には、カリフォルニア同様に防衛するであろう」とホワイトハウスに相談することもなくリップサービスをおこなっていたが、マッカーサーの約束とは裏腹に朝鮮半島からは順次アメリカ軍部隊の撤収が進められ、1949年には480名の軍事顧問団のみとなっていた。そして、マッカーサー自身も、韓国成立式典で韓国の防衛を約束したわずか半年後の1949年3月1日の記者会見で、共産主義に対する防衛線を、アラスカから日本を経てフィリピンに至る線という見解を示し、朝鮮半島の防衛については言及しなかった。

アメリカ軍の軍事顧問団に指導された韓国軍兵士は、街頭や農村からかき集められた若者たちで、未熟で文字も読めない者も多く、アメリカ軍の第二次世界大戦当時の旧式兵器をあてがわれて満足に訓練も受けていなかった。アメリカ軍の軍事顧問団の将校らは、そんな惨状をアメリカ本国やマッカーサーに報告すると昇進に響くことを恐れて、韓国軍はアジア最高であるとか、韓国軍は面目を一新し兵士の装備は人民軍より優れていると虚偽の報告を行った。その頃の1950年1月12日にディーン・アチソン国務長官が、「アメリカが責任を持つ防衛ラインは、フィリピン – 沖縄 – 日本 – アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任を持たない」と発言している(「アチソンライン」)。これはマッカーサーの1949年3月1日の記者会見での言及とほぼ同じ見解であったが、トルーマン政権中枢の見解でもあり、北朝鮮による韓国侵攻にきっかけを与えることとなった。アメリカ軍事顧問団の虚偽の報告を信じていたアメリカ本国やマッカーサーであったが、北朝鮮軍侵攻10日前の1950年6月15日になってようやく、ペンタゴン内部で韓国軍は辛うじて存在できる水準でしかないとする報告が表となっている。しかし、すでに遅きに失していた。

北朝鮮による奇襲攻撃

第二次世界大戦後に南北(韓国と北朝鮮)に分割独立した朝鮮半島において、1950年6月25日に、ソ連のヨシフ・スターリンの許可を受けた金日成率いる朝鮮人民軍(北朝鮮軍)が韓国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。

当時マッカーサーは、アメリカ中央情報局 (CIA) やマッカーサー麾下の諜報機関 (Z機関) から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたにもかかわらず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、真剣に検討しようとはしていなかった。北朝鮮軍が侵攻してきた6月25日にマッカーサーにその報告がなされたが、マッカーサーは全く慌てることもなく「これはおそらく威力偵察にすぎないだろう。ワシントンが邪魔さえしなければ、私は片腕を後ろ手にしばった状態でもこれを処理してみせる」と来日していたジョン・フォスター・ダレス国務長官顧問らに語っている。事態が飲み込めないマッカーサーは翌6月26日に韓国駐在大使ジョン・ジョセフ・ムチオがアメリカ人の婦女子と子供の韓国からの即時撤収を命じたことに対し、「撤収は時期尚早で朝鮮でパニックを起こすいわれはない」と苦言を呈している。ダレスら国務省の面々には韓国軍の潰走の情報が続々と入ってきており、あまりにマッカーサーらGHQの呑気さに懸念を抱いたダレスは、マッカーサーに韓国軍の惨状を報告すると、ようやくマッカーサーは事態を飲み込めたのか、詳しく調べてみると回答している。ダレスに同行していた国務省のジョン・ムーア・アリソンはそんなマッカーサーらのこの時の状況を「国務省の代表がアメリカ軍最高司令官にその裏庭で何が起きているかを教える羽目になろうとは、アメリカ史上世にも稀なことだったろう」と呆れて回想している。

6月27日にダレスらはアメリカに帰国するため羽田空港に向かったが、そこにわずか2日前に北朝鮮の威力偵察を片腕で処理すると自身満々で語っていたときと変わり果てたマッカーサーがやってきた。マッカーサーは酷く気落ちした様子で「朝鮮全土が失われた。われわれが唯一できるのは、人々を安全に出国させることだ」と語ったが、ダレスとアリソンはその風貌の変化に驚き「わたしはこの朝のマッカーサー将軍ほど落魄し孤影悄然とした男を見たことがない」と後にアリソンは回想している。

6月28日にソウルが北朝鮮軍に占領された。わずかの期間で韓国の首都が占領されてしまったことに驚き、事の深刻さを再認識したマッカーサーは、6月29日に東京の羽田空港より専用機の「バターン号」で水原に飛んだが、この時点で韓国軍の死傷率は50%に上ると報告されていた。マッカーサーはソウル南方32kmに着陸し、漢江をこえて炎上するソウルを眺めたが、その近くを何千という負傷した韓国軍兵士が敗走していた。マッカーサーは漢江で北朝鮮軍を支えきれると気休めを言ったが、アメリカ軍が存在しなければ韓国が崩壊することはあきらかだった。マッカーサーは日本に戻るとトルーマンに、地上軍本格投入の第一段階として連隊規模のアメリカ地上部隊を現地に派遣したいと申し出をし、トルーマンは即時に許可した。この時点でトルーマンはマッカーサーに第8軍の他に、投入可能な全兵力の使用を許可することを決めており、マッカーサーもまずは日本から2個師団を投入する計画であった。7月7日、国際連合安全保障理事会決議84により、北朝鮮に対抗するため、アメリカが統一指揮を執る国連軍の編成が決議され、7月8日に、マッカーサーは国連軍司令官に任命された。国連軍(United Nations Command,UNC)には、イギリス軍やオーストラリア軍を中心としたイギリス連邦軍や、ベルギー軍など16ヶ国の軍が参加している。

 しかし、第二次世界大戦終結後に大幅に軍事費を削減していたアメリカ軍の戦力の低下は著しかった。ひどい資金不足で砲兵部隊は弾薬不足で満足な訓練もしておらず、 フォート・ルイス基地などでは、トイレットペーパーは1回の用便につき2枚までと命じられるほどであった。しかし、この惨状でもマッカーサーら軍の首脳は、第二次世界大戦での記憶から、アメリカ軍を過大評価しており、アメリカ軍が介入すれば兵力で圧倒的に勝る北朝鮮軍の侵略を終わらせるのにさほど手間は取るまいと夢想していた。熊本県より釜山に空輸された、アメリカ軍の先遣部隊ブラッド・スミス中佐率いるスミス特殊任務部隊(通称スミス支隊)が7月4日に北朝鮮軍と初めて戦闘した。T-34戦車多数を投入してきた北朝鮮軍に対して、スミス支隊は60mm( 2.36inch)バズーカで対抗したものの役に立たず、スミス支隊は壊滅した。(烏山の戦い)その後に到着した第24歩兵師団の本隊も苦戦が続き、ついには師団長のウィリアム・ディーン少将が北朝鮮軍の捕虜となってしまった。

第8軍司令官ウォルトン・ウォーカー中将はマッカーサーに信頼されておらず冷遇されており、優秀な士官が日本に派遣されると、第8軍からマッカーサーが自分の参謀に掠め取ったので、第8軍には優秀な士官が少なかった。朝鮮戦争開戦時の第8軍の9名の連隊長を国防長官ジョージ・マーシャルが評価したところ、朝鮮半島の厳しい環境で、体力的にも能力的にも十分な指揮が執れる優秀な連隊長と評価されたのはたった1名で、他は55歳以下47歳までの高齢で指揮能力に疑問符がつく連隊長で占められていた。壊滅した第24師団は、士官の他、兵、装備に至るまで国の残り物を受け入れている最弱で最低の師団と見られていた。師団の士官のひとりは「兵員は定数割れし、装備は劣悪、訓練は不足したあんな部隊(第24師団)が投入されたのは残念であり、犯罪に近い」とまで後に述懐している。

マッカーサーは、第24師団が惨敗を続けていた7月上旬に、統合参謀本部に11個大隊の増援を要求したが、兵力不足であったアメリカ軍は兵力不足を補うために兵士の確保を強引な手段で行った。まずは日本で犯罪を犯して、アメリカの重営倉に護送される予定の兵士らに「朝鮮で戦えば、犯罪記録は帳消しにする」という選択肢が与えられた。またアメリカ国内では、第二次世界大戦が終わり普通の生活に戻っていた海兵隊員を、かつての契約に基づき再召集している。召集された海兵隊員は予備役に志願しておらず、自分らは一般市民と考えていたので再召集可能と知って愕然とした。強引に招集した兵士を6週間訓練して朝鮮に送るという計画であったが、時間がないため、朝鮮に到着したら10日間訓練するという話になり、それがさらに3日に短縮され、結局は訓練をほとんど受けずに前線に送られた。国連軍が押されている間に、アメリカ軍工兵部長ガソリン・デイヴィットソン准将が、釜山を中心とする朝鮮半島東南端の半円形の防御陣地を構築した。(釜山橋頭堡)ウォーカーはその防衛線まで国連軍を撤退させるとマッカーサーに報告すると、翌朝マッカーサーが日本から視察に訪れ、ウォーカーに対して「君が望むだけ偵察できるし、塹壕が掘りたいと望めば工兵を動員することができる。しかしこの地点から退却する命令を下すのは私である。この命令にはダンケルクの要素はない。釜山への後退は認められない」と釜山橋頭堡の死守を命じた。ウォーカーはそのマッカーサーの命令を受けて部下将兵らに「ダンケルクもバターンもない(中略)我々は最後の一兵まで戦わねばならない。捕虜になることは死よりも罪が重い。我々はチームとして一丸となって敵に当たろうではないか。一人が死ねば全員も運命をともにしよう。陣地を敵に渡す者は他の数千人の戦友の死にたいして責任をとらねばならぬ。師団全員に徹底させよ。我々はこの線を死守するのだ。我々は勝利を収めるのだ。」といういわゆる「Stand or Die」(陣地固守か死か)命令を発している。

仁川上陸作戦

遠くにある古ぼけた食堂で、俺たちは1日3度、豚と豆だけ食う。ビーフステーキなんて絶対出ない。畜生、砂糖ときたら紅茶に入れる分しかない。だから、おれたちゃ少しずつ消えていくんだ。老兵は死なず、ただ消え去るのみ。二等兵様は毎日ビールが飲める、伍長様は自分の記章が大好きだ。軍曹様は訓練が大好きだ、きっと奴らはいつまでもそうなんだろう。だから俺たちはいつも訓練、訓練。消え去ってしまうまで。

というものである。
議場から出て市内をパレードすると、ワシントン建設以来の50万人の市民が集まり、歓声と拍手を送った。翌日にはニューヨークのマンハッタンをパレードし、アイゼンハワー凱旋の4倍、約700万人が集まってマッカーサーを祝福した。その日ビルから降り注いだ紙吹雪やテープは、清掃局の報告によれば2,859トンにもなった。また、1942年にマッカーサーがコレヒドールで孤軍奮闘し国民的人気を博していた時に、コーンパイプやマッカーサーを模したジョッキなどのキャラクターグッズで儲けた業者が、また大量のマッカーサー・グッズを販売したが、飛ぶように売れた。その中にはマッカーサーの演説にも登場した軍歌「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」のレコードもあったが、5種類もの音源で販売された。中には1948年の大統領候補となって落選した際に売れ残っていた在庫をさばいた業者もいたという。住居としていたマンハッタンの高級ホテルウォルドルフ=アストリアのスイートルームには15万通の手紙と2万通の電報と毎日3,000件の電話が殺到し、家族にも各界から膨大な数のプレゼントが送られてくるほど、マッカーサーの国民的人気は頂点に達した。
5月3日から、マッカーサーにとって最後の公務となる、上院の外交委員会と軍事委員会の合同聴聞会に出席した。議題は「マッカーサーの解任」と「極東の軍事情勢」についてであるが、マッカーサー解任が正当であるとするトルーマンら民主党に対し、その決定を非とし政権への攻撃に繋げたい共和党の政治ショーとの意味合いも強かった。しかし、この公聴会に先立つ4月21日に、トルーマン政権側のリークによりニューヨーク・タイムズ紙にトルーマンとマッカーサーによるトラック島会談の速記録が記事として掲載された。これまでマッカーサーは「中国の参戦はないと自分は言っていない」と嘘の主張を行っており、この速記録によりこれまでの主張を覆されたマッカーサーは「中傷だ」と激怒し必死に否定したが、この記事は事実であり、この記事を書いたニューヨーク・タイムズの記者トニー・リヴィエロは1952年にピューリッツァー賞を受賞している。この記事により、マッカーサーの国民的人気を背景にした勢いは削がれていた。
公聴会が始まると、マッカーサーは「ソ連は朝鮮戦争に深く関与していない」「中共が朝鮮半島から追い出されるくらいの敗北はソ連に大した影響は与えない」「極東地域のソ連軍にアメリカ軍と戦うだけの実力はなく、核兵器も劣っている、従ってソ連と戦うのなら今の方がよい、時間と共にアメリカの優位性は失われていく」など、自身のソ連への評価と情勢判断を雄弁に証言したが、統合参謀本部と議員にはソ連が例えマッカーサーの分析通りであったとしても超大国ソ連を刺激する覚悟はなく、マッカーサーの大胆な提案が現実離れしているという考えが大勢を占めていた。ブラッドレーはマッカーサーの提案を「我々を誤った場所で、誤った時期に、誤った敵との誤った戦争に巻き込むことになったであろう」と切り捨てている。また、マッカーサーのソ連への過小評価を聞き、大戦前に日本を過小評価して敗北したマッカーサーの前の過ちを思い出す議員も多かった。しかし、雄弁に公聴会をリードしてきたマッカーサーも、民主党のブライアン・マクマーン上院議員からの、ニューヨーク・タイムズの記事に書かれた通り「あなたは中国は参戦しないと確信していたのではなかったのか?」との質問を受けると、これまでのように否定することもできず「私は中国の参戦はないと思っていた」と認めざるを得なくなった。この白状によりマッカーサーの立場は弱くなっていき、マクマーンがたたみかけるように「将軍はアメリカと西側連合軍が西ヨーロッパでソ連軍の攻撃に耐えることができるとお思いか?」と質問すると、マッカーサーは「私の責任地域(極東)以外のことに巻き込まないでほしい。グローバルな防衛に関する見解はここで証言すべきことではない」と答えたが、リンドン・B・ジョンソン上院議員からのその責任地域の「中国軍が鴨緑江以北に追いやられた場合、中国軍は再度国境線を突破し朝鮮半島に攻め込んではこないのか?」という質問に対しては、まともな返答を行うことができなかった。それまで専門家を自認し自説を雄弁に語っていた強気な姿勢は完全に失われ、政権側の民主党の容赦ない質問に一方的な守勢となっていった。
マッカーサーへの質疑は3日間にわたり、トルーマン政権はマッカーサーに対し勝利を収めたが、これでトルーマンが責任追及から逃れられたわけではなく、鴨緑江流域での敗北はマッカーサーと同様にトルーマン政権をも破壊し、この後民主党は政権を失うこととなる。しかし、マッカーサー解任当時は「これほど不人気な人物がこれほど人気がある人物を解任したのははじめてだ」とタイム誌に書かれるほどの不人気さで、大統領再選を断念したトルーマンも、文民統制の基本理念を守り、敢然とマッカーサーに立ち向かったことが次第に評価されていき、在職時の不当な低評価が覆され、今日ではアメリカ国民から歴代大統領の中で立派な大統領の1人と看做されるようになっている。
この公聴会の期間中、出席者はマッカーサーの提案で昼休みも取らず、サンドイッチとコーヒーを会場に運ばせて昼食とし、休みなく質疑を続けた。特にマッカーサーは、質疑中には一度としてトイレにすら行かず、とある議員から「元帥は71歳なのに大学生のような膀胱を持っている」と変な感心をされている。この3日間にわたる質疑中に、今日でもよく日本で引用される「中国に対しての海空封鎖戦略」や「日本人は12歳」証言もなされている。 この聴聞会の後は軍人として活動することはなく、事実上退役したが、アメリカ軍において元帥には引退の制度がないため、軍籍そのものは生涯維持された。

退任後

 マッカーサーはその後、全国遊説の旅に出発した。テキサス州を皮切りに11州を廻ったが、いく先々で熱狂的な歓迎を受けた。マッカーサーは各地の演説で1952年の大統領選を見据えて、上院聴聞会では抑えていたトルーマンへの個人攻撃や高い連邦税の批判など、舌鋒鋭い政治的発言を繰り返したが、時が経つにつれ次第に聴衆は減少していった。

1951年9月にサンフランシスコで日本国との平和条約が締結されたが、その式場にマッカーサーは招かれなかった。トルーマン政権はマッカーサーにとことん冷淡であり、フランクリン・ルーズヴェルトの元大統領顧問バーナード・バルークなどはトルーマン政権にマッカーサーにも式典への招待状を送るようにと強く進言していたが、ディーン・アチソン国務長官はそれを断っている。首席全権であった吉田茂が、マッカーサーと面談し平和条約についての感謝を表したいと国務省に打診したが、国務省よりは「望ましくない」と拒否されるほどの徹底ぶりであった。その頃、マッカーサーは全国遊説の旅の途中であったが、サンフランシスコに招待されなかったことについて聞かれると「おそらく誰かが忘れたのであろう」と素っ気なく答えている。

その後も相変わらずマッカーサーの政権批判は続いたが、英雄マッカーサーの凱旋を当初熱狂的に歓迎していた全米の市民も、1952年に入る頃には熱気も冷め始めており、ジャクソンで行われた演説は反対の叫び声などで25回も演説が中断した、と『ニューヨーク・タイムズ』紙で報じられた。マッカーサーに対する共和党内の支持は広がらなかったが、大統領の座に並々ならぬ執着を見せ、同じく劣勢であった候補者ロバート・タフトと選挙協力の密約を行うなど最後の挽回を試み、7月のシカゴであった共和党大会の基調演説のチャンスを与えられたが、その演説は饒舌で演説上手なマッカーサーのものとは思えない酷いもので、演説に集中できない聴衆が途中から私語を交わし始め、最後は演説が聞き取れないほどまでになった。マッカーサーも敗北を悟るとひどく落胆したものの、即座にニューヨークに戻り、結局共和党の大統領候補には元部下のアイゼンハワーが選出された。

大統領候補となったアイゼンハワーとマッカーサーは、共和党大会後の11月に6年ぶりに再会した。かつての上司の顔を立てる意味であったのか、アイゼンハワーからの会談の申し出であったが、マッカーサーはアイゼンハワーに自らが作成した14箇条の覚書を手渡した。その内容は、ヨシフ・スターリンと首脳会談を開き、「東西ドイツ及び南北朝鮮の統一」「アメリカとソ連の憲法に交戦権否定の条項を追加」などを提案し、スターリンが尻込みするようであれば北朝鮮で核兵器を使用せよ、などという、大胆だという以外は何の価値もない提案であった。その後、アイゼンハワー大統領本選にも勝利して第34代大統領に就任したが、アイゼンハワーホワイトハウスペンタゴンもマッカーサーに意見を求めるようなことはなかった。

1952年にマッカーサーはレミントンランド社(タイプライター及びコンピュータメーカー)の会長に迎えられた。その後、レミントンランドはスペリー社に買収されたが、マッカーサーはスペリ―社の社長に迎えられた(その後ユニシスとハネウェルになる)。スペリー社の主要取引先はペンタゴンであり、マッカーサー招聘は天下りの意味合いも強く、年俸は10万ドルと高額ながら日常業務には何の役割も持たされず、週に3 -4日、4時間程度出社し国際情勢について助言するだけの仕事であった。その為時間に余裕があったが、関心ごとは野球やボクシングなどのスポーツ観戦に限られていた。

1955年のミズーリ号での降伏式典と同じ日に、日本から外相の重光葵がマッカーサーを訪ねた。マッカーサーは感傷的に日本占領時代を回想し、昭和天皇との初会談の様子を話し、極東国際軍事裁判は失敗であったと悔やんでいる。1960年には勲一等旭日桐花大綬章が贈られ「最近まで戦争状態にあった偉大な国が、かつての敵司令官にこのような栄誉を与えた例は、私の知る限り歴史上他に例がない」と大げさに喜んでみせた。

トルーマンアイゼンハワー両政権はマッカーサーに対し冷淡な態度に終始したが、第35代大統領ジョン・F・ケネディもマッカーサーに好意を抱いておらず、むしろ尊大で過大評価された存在との認識であった。しかし、1961年4月にニューヨークで会談するとケネディのマッカーサーに対する見方が大きく変わり、1961年7月にはホワイトハウスの昼食会に招待している。その席でケネディとマッカーサーは意気投合し、昼食が終わった後、3時間も話し込んでいる。特に泥沼化しつつあったベトナム情勢での意見交換の中で、マッカーサーはロバート・マクナマラ国防長官ケネディ側近が主張しているドミノ理論をせせら笑い「アジア大陸にアメリカの地上軍を投入しようと考える者は頭の検査でもしてもらった方がいい」と自分が朝鮮半島で失敗した苦い経験を活かした忠告を行ったが、その的を射た忠告は顧みられることはなく、ケネディは「軍事顧問団」と名付けられた正規軍の派遣を増強するなどベトナム戦争への介入を進め、さらにケネディの暗殺後、後任のリンドン・B・ジョンソン大統領はそのままベトナムの泥沼にはまり込んでいった。

死去

1962年5月、マッカーサーは、自らの華々しい軍歴の最初の地となり、かつて自分が校長を務めたウェストポイント陸軍士官学校から、同校で最高の賞となるシルバヌスセイヤー賞を受け、士官学校生徒を前に人生最後の閲兵と演説を行った。

しかし私の思い出はいつもウェストポイントに帰ってくる、そこにはあの『義務・名誉・祖国』という言葉が繰り返しこだまする。今日は私にとって諸君との最後の点呼となる。しかし私が黄泉路の川を越える時、私の意識に最後まで残っているのは士官学校生徒諸君のこと、ただ士官学校生徒諸君のことだと諸君らに承知してもらいたい。では諸君、さらば。

1964年3月6日に、老衰による肝臓・腎臓の機能不全でワシントンD.C.のウォルターリード陸軍病院に入院した。3月29日の手術は腸を2.4mも切り取るなど大がかりなもので、術後そのまま危篤となり、3月30日には腎機能がほとんど停止して3度目の手術を受けた。4月に入って一旦は意識を取り戻したものの、4月3日に意識不明となり、4月5日午後2時39分に84歳で死去した。
翌日、遺体はニューヨークのユニバーサルフュネラル教会へ移送されて告別式を行った後、4月8日にワシントンD.C.に戻されて連邦議会議事堂に安置された。そして翌4月9日にバージニア州ノーフォークまで運ばれ、4月11日に聖ポール教会で大統領リンドン・B・ジョンソンほか数千人が参列して国葬が執り行われた。日本からは代表として吉田茂が出席した。

マッカーサーの占領統治手法

昭和天皇との会談の内容について

昭和天皇とマッカーサーの会談については、様々な関係者から内容が伝えられている。当事者である昭和天皇は「男の約束」として終生語らなかったが、一方のマッカーサーは多くの関係者に話し、1964年に執筆した『回顧録』でも披露している。それによると昭和天皇は「私は、国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、おたずねした」と発言したとあり、それを聞いたマッカーサーは、天皇が自らに帰すべきではない責任をも引き受けようとする勇気と誠実な態度に「骨の髄まで」感動し、「日本の最上の紳士」であると敬服した。マッカーサーは玄関まで出ないつもりだったが、会談が終わったときには天皇を車まで見送り、慌てて戻ったといわれる。
しかし、マッカーサーの『回顧録』は多くの「誇張」「思い違い」「事実と全く逆」があり、自己弁明と自慢と自惚れに溢れており、史料的な価値は低いものとの指摘もあり、この昭和天皇とのやり取りについても、非喫煙者であった昭和天皇にマッカーサーがアメリカ製のタバコを奨め、昭和天皇が震えた手でタバコを吸ったと言っているなど事実として疑わしい記述もある。
マッカーサーから会談の内容を聞いた関係者はかなりの数に上るが、その内容が各人によってかなり異なっている。
一番身近な関係者は妻のジーン・マッカーサーで、マッカーサー記念館事務局が1984年に41回にもわたってジーンに初のロングインタビューを行っているが、ジーンはこの日の様子を、日本人の使用人が天皇と顔を合わせないよう1ヶ所に閉じ込めておけという指示がマッカーサーからあったことや、昭和天皇は丁寧で礼儀正しい人物と聞いており、最初に出会った人物に深くお辞儀をすると予想されるため、ドアを開けて天皇を迎えるのはフィリピン人のボーイではなく、マッカーサーの副官のボナー・フェラーズ准将と通訳のフォービアン・バワーズ少佐にしようという打ち合わせをしたことなど鮮明に記憶しており、証言の信頼性が高いと思われる。ジーンと側近軍医ロジャー・O・エグバーグは会見の場所となったサロンに続く応接間のカーテンの裏から、この会見をのぞき見していたが、距離が遠くて話はほとんど聞こえなかった。しかし終始和やかな雰囲気で会談は進められていたのを確認している。天皇が帰った後、ジーンはマッカーサーから天皇の発言の内容を聞かされたが、『回顧録』とほぼ同じ内容であったという。また、ジーンと会いたいと皇后が希望していたとのことであったが、ジーンにその気はなく、結局実現しなかった。
マッカーサーと昭和天皇を一緒に出迎えた(会談には同席していない)マッカーサーの専属通訳で「歌舞伎を救った男」として有名なフォービアン・バワーズ少佐も、マッカーサーから聞いた話として「巣鴨刑務所にいる人にかわり、私の命を奪ってください。彼等の戦争中の行為は私の名においてなされた。責任は私にある。彼らを罰しないでほしい。私を罰してください。」と昭和天皇が語ったと証言している。
極東国際軍事裁判の首席検事ジョセフ・キーナンは田中隆吉元少将に「マッカーサー元帥に面会した際、元帥はこう言った。自分は昨年9月末に日本の天皇に面会した。天皇はこの戦争は私の命令で行ったものであるから、戦犯者はみな釈放して、私だけ処罰してもらいたいと言った。もし天皇を裁判に付せば、裁判の法廷で天皇はそのように主張するであろう。そうなれば、この裁判は成立しなくなるから、日本の天皇は裁判に出廷させてはならぬ。私は元帥の言もあり、日本に来てからあらゆる方法で天皇のことを調査したが、天皇は平和主義者であることが明らかとなった。……私としては、天皇を無罪にしたい。貴君もそのように努力してほしい。」と言ったとされる。
1955年8月に渡米した当時の外務大臣重光葵はアメリカでマッカーサーと会談したが、その席でのマッカーサーの発言として、「陛下はまず戦争責在の開題を自ら持ち出され、次のようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました。すなわち「私は日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について、貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分にとって問題でない。構わずに総ての事を進めていただきたい。」これが陛下のお言葉でした。私はこれを聞いて興奮の余り、陛下にキスしようとした位です。もし国の罪をあがのうことが出来れば進んで証言台に上ることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした。」という話があったと語っている。
以上、内容は証言ごとに異なるが“昭和天皇が全責任を負う”とした基本的な部分はマッカーサーの『回顧録』に沿った証言が多い。しかし中には、マッカーサーの政治顧問ジョージ・アチソンがマッカーサーから聞いた話として「裕仁がマッカーサーを訪問したとき、天皇はマッカーサーが待っていた大使邸の応接室に入ると最敬礼した。握手を交しあったあと、天皇は『私は合衆国政府が日本の宣戦布告を受け取る前に真珠湾を攻撃するつもりはなかったが、東条が私をだましたのだ。しかし私は責在を免れるためにこんなことをいうのではない。私は日本国民の指導者であり、国民の行動に責在がある』と言った。」と東條英機にも責任があるとも取れる発言をしたとの証言もある。この証言は、『ニューヨーク・タイムズ』が昭和天皇・マッカーサー会談の2日前に、単独インタビューを天皇に行い、その際に記者が「宣戦の詔書が真珠湾の攻撃を開始するために東條大将が使用した如く使用されるというのは、陛下のご意思でありましたか?」と質問したのに対し、天皇が「宣戦の詔書を東條大将が使用した如くに(奇襲攻撃のため)使用する意思はなかった」と答えたため、新聞紙上に「ヒロヒト、真珠湾奇襲の責任をトージョーにおしつける」という大見出しが躍ることとなった事実と符合しており、この際の昭和天皇の発言をもって、天皇はマッカーサーとの会見でも東條に責任を押し付けるような発言をしたと主張する研究者もいる。
一方で日本側は、昭和天皇の他に通訳として外務省の奥村勝蔵が同席した。その奥村が会談の内容を会談後にまとめ、外務省と宮内庁が保管していた『御会見録』が2002年に情報公開されたが、その中にはマッカーサーの『回顧録』にあるような昭和天皇の全責任発言はなく、戦争責任に関する発言としては「此ノ戦争ニ付テハ、自分トシテハ極力之ヲ避ケ度イ考デアリマシタガ戦争トナルノ結果ヲ見マシタコトハ自分ノ最モ遺憾トスル所デアリマス。」「私モ日本国民モ敗戦ノ現実ヲ十分認識シテ居ルコトハ申ス迄モアリマセン。今後ハ平和ノ基礎ノ上二新日本ヲ建設スル為、私トシテモ出来ル限リ、力ヲ尽シタイト思ヒマス。」とかなりトーンダウンしている。これは、作家・児島襄が1975年に取材先非公表ですっぱ抜いたスクープとほぼ同じ内容であったが、奥村の後を継いで天皇の通訳を務めた外務省の松井明が、天皇とマッカーサー、リッジウェイとの会見の詳細を記述した『松井文書』 によれば、松井が「天皇が一切の責任を負われるという発言については、事の重大さを顧慮し自分の判断で記録から削除した。」と奥村から直接聞いたと記述している。
また、この会見に同行した(会見の場に同席はしていない)侍従長・藤田尚徳の著書『侍従長の回想』によれば、「外務省でまとめた会見の模様」が便箋5枚にまとめられてきたが、そのまとめによると昭和天皇の発言は「敗戦に至った戦争の、色々な責任が追及されているが、責任は全て私にある。文武百官は、私の任命するところだから、彼らに責任はない。私の一身はどうなろうと構わない。私は貴方にお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい。」であったという。この便箋は昭和天皇の御覧に供したが、そのまま藤田の手元には返ってこなかったとのことであった。ただし、この記述は外務省公開の「御会見録」の内容とは一致しないため、違う資料を引用した可能性も指摘されている。
いずれにしても、昭和天皇との第1回会談の後に、マッカーサーの天皇への敬愛の情は深まったようで、通訳の奥村勝蔵によれば第1回会談の際には天皇を「You」と呼び、奥村に通訳を求める時も「Tell The Emperor(天皇に告げよ)」と高圧的だったが、その後は天皇を呼ぶときは「Your Majesty(陛下)」と尊厳を込めて呼ぶようになったと証言している。
そしてマッカーサーは、1946年1月25日に陸軍省宛てに天皇に関する長文の極秘電文を打ったが、その内容は「天皇を戦犯として告発すれば、日本国民の間に想像もつかないほどの動揺が引き起こされるであろう。その結果もたらされる混乱を鎮めるのは不可能である。」「天皇を葬れば日本国家は分解する。」「政府の諸機構は崩壊し、文化活動は停止し、混沌無秩序はさらに悪化し、山岳地帯や地方でゲリラ戦が発生する。」「私の考えるところ、近代的な民主主義を導入するといった希望はことごとく消え去り、引き裂かれた国民の中から共産主義路線に沿った強固な政府が生まれるであろう。」「これらの事態が勃発した場合、100万人の軍隊が半永久的に駐留し続けなければならない。」とワシントンを脅す内容で、アメリカ政府内での天皇の戦犯問題は、この電文により不問との方針で大方の合意が形成された。救われたのは昭和天皇ばかりでなく、天皇なしでは平穏無事な占領統治は不可能だったマッカーサーも救われたことになり、この会談の意義は極めて大きかったといえる。

マ元帥人気

占領当時、マッカーサーは多くの日本国民より「マ元帥」と慕われ、絶大な人気を得ていた。GHQ総司令部本部が置かれた第一生命館の前は、マッカーサーを見る為に集まった多くの群衆で賑わっていた。敗戦によりそれまでの価値観を全て否定された日本人にとって、マッカーサーは征服者ではなく、新しい強力な指導者に見えたのがその人気の要因であるとの指摘や、「戦いを交えた敵が膝を屈して和を乞うた後は、敗者に対して慈愛を持つ」というアメリカ軍の伝統に基づく戦後の食糧支援などで、日本国民の保護者としての一面が日本人の心をとらえた、という指摘があるが、自然発生的な人気ではなく、自分の人気を神経質に気にするマッカーサーの為に、GHQの民間情報教育局 (CIE) が仕向けたという指摘もある。
マッカーサーとGHQは戦時中の日本軍捕虜の尋問などで、日本人の扱いを理解しており、公然の組織として日本のマスコミ等を管理・監督していたCIEと、日本国民には秘匿された組織であった民間検閲支隊(CCD)を巧みに利用し、硬軟自在に日本人の思想改造・行動操作を行ったが、もっとも重要視されたのがマッカーサーに関する情報操作であった。CIEが特に神経をとがらせていたのは、マッカーサーの日本国民に対するイメージ戦略であり、マッカーサーの存在を光り輝くものとして日本人に植え付けようと腐心していた。例えばマッカーサーは老齢でもあり前髪の薄さをかなり気にしていたため、帽子をかぶっていない写真は「威厳を欠く」として新聞への掲載を許さなかった。また、執務室では老眼鏡が必要であったが、眼鏡をかけた姿の撮影はご法度であった。 写真撮影のアングルに対しては異常に細かい注文がつき、撮影はできればマッカーサーが自信がある右側からの撮影が要求され、アメリカ軍機関紙・星条旗新聞のカメラマンはひざまずいて、下からあおって撮影するように指示されていた。
日本人によるGHQ幹部への贈答は日常茶飯事であったが、マッカーサーに対する贈答についての報道は「イメージを損ねる」として検閲の対象になることもあった。例えば、「埼玉県在住の画家が、同県選出の山口代議士と一緒にGHQを訪れ、マッカーサーに自分の作品を贈答した」という記事は検閲で公表禁止とされている。 マッカーサーへの非難・攻撃の記事はご法度で、時事通信社が「マッカーサー元帥を神の如く崇め立てるのは日本の民主主義のためにならない」という社説を載せようとしたところ、いったん検閲を通過したものの、参謀第2部 (G2) 部長のチャールズ・ウィロビーの目に止まり、既に50,000部印刷し貨車に積まれていた同紙を焼却するように命じている。
一方で賛美の報道は奨励されていた。ある日、第一生命館前で日本の女性がマッカーサーの前で平伏した際に、マッカーサーはその女性に手を差し伸べて立ち上がらせて、チリを払ってやった後に「そういうことはしないように」と女性に言って聞かせ、女性が感激したといった出来事や、同じく第一生命館で、マッカーサーがエレベーターに乗った際に、先に乗っていた日本人の大工が遠慮して、お辞儀をしながらエレベーターを降りようとしたのをマッカーサーが止め、そのまま一緒に乗ることを許したことがあったが、後にその大工から「あれから一週間というもの、あなた様の礼節溢れるご厚意について頭を巡らしておりました。日本の軍人でしたら決して同じことはしなかったと思います。」という感謝の手紙を受け取ったとか些細な出来事が、マッカーサー主導で大々的に報道されることがあった。特に大工の感謝状の報道については、当時の日本でマッカーサーの目論見通り、広く知れ渡られることとなり、芝居化されたり、とある画家が『エレベーターでの対面』という絵画を描き、その複製が日本の家庭で飾られたりした。
しかし賛美一色ではアメリカ本国や特派員から反発を受け、ゆくゆくは日本人からの人気を失いかねないと認識していたマッカーサーは、過度の賛美についても規制を行っている。日本の現場の記者らは、その微妙なバランス取りに悩まされる事となった。そのうちに日本のマスコミは、腫れ物に触らずという姿勢からか自主規制により、マッカーサーに関する報道はGHQの公式発表か、CIEの先導で作られた外国特派員協会に所属する外国のメディアの記者の配信した好意的な記事の翻訳に限ったため、マッカーサーのイメージ戦略に手を貸す形となり、日本国民のマッカーサー熱を大いに扇動する結果を招いた。
GHQはマッカーサーの意向により、マッカーサーの神話の構築に様々な策を弄しており、その結果として多くの日本国民に、マッカーサーは天皇以上のカリスマ性を持った「碧い目の大君」と印象付けられた。その印象構築の手助けとなったのは、昭和天皇とマッカーサー初会談時に撮影された、正装で直立不動の昭和天皇に対し、開襟の軍服で腰に手を当て悠然としているマッカーサーの写真であった。

マッカーサーへの50万通の手紙

マッカーサーのところに送られてくる日本の団体・個人から寄せられた手紙は全て英訳されて、重要なものはマッカーサーの目に通され、その一部が保存されていた。その手紙の一部の内容が袖井林二郎の調査により明らかにされた。ただし手紙の総数については、連合軍翻訳通信班 (ATIS)の資料(ダグラス・マッカーサー記念館所蔵)で1946年5月 -1950年12月までに受け取った手紙が411,816通との記載があり、袖井は終戦から1946年4月までに受け取った手紙を10万通と推定して合計50万通としているが、CIEの集計によれば、終戦から1946年5月末までに寄せられた手紙は4,600通に過ぎず、合計しても50万通には及ばない。また手紙の宛先についても、マッカーサー個人宛だけではなく、GHQの各部局を宛先とした陳情・請願・告発・声明の他に、地方軍政を司った地方軍政部を宛先とした手紙も相当数に上っている。
マッカーサーやGHQ当局への日本人の投書のきっかけは、1945年8月の終戦直後に東久邇宮稔彦王総理大臣が国民に向けて「私は国民諸君から直接手紙を戴きたい、嬉しいこと、悲しいこと、不平でも不満でも何でも宜しい。私事でも結構だし公の問題でもよい・・・一般の国民の皆様からも直接意見を聞いて政治をやっていく上の参考としたい」と新聞記事を使って投書を呼び掛けたことにあった。その呼び掛けにより、東久邇宮内閣への投書と並行して、マッカーサーやGHQにも日本人からの手紙が届くようになった。しかし、当初はマッカーサーやGHQに届く手紙の数は少なく、1945年末までは800通足らずに過ぎなかった。しかし、11月頃には東久邇宮内閣に対する投書が激増し、ピーク時で一日1,371通もの大量の手紙が届くようになると、マッカーサーとGHQへの手紙も増え始め、東久邇宮内閣が早々に倒れると、日本政府に殺到していた手紙がマッカーサーやGHQに送られるようになった。マッカーサーやGHQに手紙が大量に届くような流れを作ったのは東久邇宮稔彦王であるが、日本国民はマッカーサーやGHQの意向で早々と倒れる日本の内閣よりも、日本の実質的な支配者であったマッカーサーやGHQを頼りとすることとなったのである。
マッカーサーやGHQへの投書の内容は多岐に渡るが、未だ投書が少なかった1945年10月の投書の内容について、東京発UP電が報じている。報道によれば「マ元帥への投書、戦争犯罪人処罰、配給制度改訂等、1ヶ月余りに300通」その内「日本語で書かれたものは100通」であり、「反軍国主義28通」「連合軍の占領並びにマ元帥への賛意25通」から「節酒と禁酒の熱望2通」まで、内容はおおまかに21通りに分れていた。中でもGHQがもっとも関心を寄せた投書が天皇に関する投書であり、『ヒロヒト天皇に関する日本人の投書』という資料名を付され、極東国際軍事裁判の国際検察局(IPS)の重要資料として管理・保管されており、1975年まで秘密文書扱いであった。昭和天皇が人間宣言を行った以降は、日本国民の間で天皇制に対する関心が高まり、1945年11月から1946年1月までのGHQへの投書1,488通の内で、もっとも多い22.6%にあたる337通が天皇制に関するものであった。投書を分析したCIEよれば、天皇制存続と廃止・否定の意見はほぼ二分されていた、ということであったが、CIEは「この様な論争の激しい主題については、体制を変革しようとしている方(天皇制廃止主張派)が体制を受け入れる方(存続派)より盛んに主張する傾向がある」と冷静に分析しており、1946年2月に天皇制の是非について世論調査をしたところ、支持91% 反対9%で世論は圧倒的に天皇制存続が強かった。手紙も存続派の方が長文で熱烈なものが多く、中には「アメリカという国の勝手気儘さに歯を喰いしばって堪えていたが、もう我慢ができない」や「陛下にもし指一本でもさしてみるがいい、私はどんな危険をおかしてもマッカーサーを刺してやる」という過激なものもあった。
天皇制が日本国憲法公布により一段落すると、もっとも多い手紙は嘆願となり、当時の時代相をあらわした種々の嘆願がなされた。その内容は「英語を学びたい娘に就職を斡旋してほしい」「村内のもめごとを解決してほしい」「アンゴラウサギの飼育に支援を」「国民体位の維持向上のため日本国民に糸引納豆の摂取奨励を」などと内容は数えきれないほど多岐に渡ったが、1946年後半から復員が本格化すると、その関連の要望・嘆願が激増した。1947年以降は復員関連の要望・嘆願の手紙が全体の90%にも達している。特にソ連によるシベリア抑留については、この頃より引き揚げ促進の為に全国にいくつもの団体が組織され、GHQにも引き揚げ促進の嘆願の投書が大量になされるようになっている。また、外地で進行していたBC級戦犯裁判の被告や受刑者の家族による助命・刑の軽減嘆願や、消息の調査要請などの投書も多く寄せられている。
従って、一部で事実誤認があるように、GHQに一日に何百通と届く手紙はマッカーサー個人へのファンレターだけではなく、占領軍の組織全体に送られた日本人の切実な陳情・請願・告発・声明が圧倒的だったが、ルシアス・D・クレイが統治した西ドイツでは限定的にしか見られなかった現象であり、マッカーサーの強烈な個性により、日本人に、マッカーサーならどんな嘆願でも聞き入れてくれるだろうと思わせる磁力みたいなものがあったという指摘もある。マッカーサー個人宛てに送られていた手紙には、「マッカーサー元帥の銅像をつくりたい」「あなたの子供をうみたい(ただし原書は存在せず)」「世界中の主様であらせられますマッカーサー元帥様」「吾等の偉大なる解放者マッカーサー元帥閣下」と当時のマッカーサーへの熱烈な人気や厚い信頼をうかがわせるものもあり、他の多くの権力者と同様に、自分への賛美・賞賛を好んだマッカーサーは、そのような手紙を中心に、気に入った自分宛ての手紙3,500通をファイルし終生手もとに置いており、死後はマッカーサー記念館で保存されているが、前述の通り、その様な手紙は全体としては少数であった。マッカーサーは送られてきた手紙をただ読むのではなく、内容を分析し、世論や民主化の進行度を測る手段の一つとして重要視し占領政策を進めていくうえでうまく活用している。

マッカーサー人気の終焉

検閲の中枢を担ったCCDが1949年10月に廃止され、マッカーサーが更迭されて帰国する頃は既にGHQの検閲は有名無実化しており、マッカーサーに対しても冷静な報道を行う報道機関も出ていた。たとえば『北海道新聞』などは、マッカーサー離日の数日後に「神格化はやめよう」というコラムを掲載し「宗教の自由がある以上、いかなる神の氏子になるのも勝手だが、日本の民主化にとって大事な事は国民一人一人が自分自身の心の中に自立の『神』を育てることであろう。」と宗教を例にして、暗にマッカーサーの盲目崇拝への批判を行っていた。しかし、依然として多くのマスコミが自主規制によりマッカーサーへの表立った批判は避けており、同じマッカーサー離日時には「受持の先生に替られた女学生のように、マ元帥に名残を惜しむことであった。さすが苦労人のダレス大使は帰京の日「今日は日本はマ元帥の思いでいっぱいだろうから私は何も言わぬ」と察しのよいことを言った」 や「ああマッカーサー元帥、日本を混迷と飢餓からすくい上げてくれた元帥、元帥! その窓から、あおい麦が風にそよいでいるのをご覧になりましたか。今年もみのりは豊かでしょう。それはみな元帥の五年八ヶ月のにわたる努力の賜であり、同時に日本国民の感謝のしるしでもあるのです。元帥!どうか、おからだをお大事に」などと別れを大げさに惜しむ報道をおこなう報道機関も多かった。
帰国したマッカーサーが、1951年5月3日から開催された上院の外交委員会と軍事委員会の合同聴聞会で「日本人は12歳」証言を行ったことが日本に伝わると、この証言が日本人、特にマスコミに与えた衝撃は大きく、『朝日新聞』は5月16日付の新聞1面に大きく【マ元帥の日本観】という特集記事を掲載し「文化程度は“少年”」と日本人に対し否定的な部分を強調して報じた。さらに社説で「マ元帥は米議会の証言で「日本人は勝者にへつらい、敗者を見下げる傾向がある」とか「日本人は現代文明の標準からみてまだ12歳の少年である」などと言っている。元帥は日本人に多くの美点長所があることもよく承知しているが、十分に一人前だとも思っていないようだ。日本人へのみやげ物話としてくすぐったい思いをさせるものではなく、心から素直に喜ばれるように、時期と方法をよく考慮する必要があろう。」と一転してマッカーサーに対し苦言を呈するなど、日本のマスコミにおけるマッカーサーへの自主規制も和らぎ、報道方針が変化していくに連れて、日本国民は、征服者であったマッカーサーにすり寄っていたことを恥じて、マッカーサー熱は一気に冷却化することとなった。
そのため、政府が計画していた「終身国賓待遇の贈呈」は先送り「マッカーサー記念館の建設」計画はほぼ白紙撤回となり、三共、日本光学工業(現ニコン)、味の素の3社が「12歳ではありません」と銘打ち、タカジアスターゼ、ニッコール、味の素の3製品が国際的に高い評価を受けている旨を宣伝する共同広告を新聞に出す騒ぎになった。

家族

母親

マッカーサーの人格形成に大きな影響を与えたのが母メアリー・ピンクニー・ハーディ(通称ピンキー)であり、マッカーサーは常にマザーコンプレックスにとらわれていたという指摘もあるほどだった。マッカーサーは幼少の頃に軍の砦内で生活していたため、6歳になるまでピンキーが勉強を教えていた。ピンキーはその間、マッカーサーが自分に依存する期間を長引かせるため、髪を長くカールしおさげにさせ、スカートをはかせていた。
その後、父親アーサーがワシントンに転勤したこともあり、マッカーサーは8歳に小学校に入学すると、その後はウェスト・テキサス軍人養成学校に進学し軍人への道を進んでいくこととなったが、ピンキーは引き続きマッカーサーに強い影響を及ぼし続けた。その一例として、マッカーサーが13歳の時に小遣い稼ぎのために新聞売りのアルバイトをしたことがあったが、他のアルバイトの学生らに販売実績でマッカーサーが負けたことをピンキーが知ると、「明日もう一度行って新聞を全部売ってきなさい。売りきるまで帰ってきてはいけません」と厳しく言いつけた。マッカーサーは翌日の夜になってから、服はボロボロであちこちに生傷をつくりながらも母親の言いつけ通り新聞を全部売り切ってから帰宅した。ピンキーはこのような厳しい教育方針により、マッカーサーが生まれ持っていた勝利への強い執念を、さらに育成し磨いていった。マッカーサーはウェスト・テキサス軍人養成学校に入学した頃は普通の成績であったが、ピンキーに磨かれた負けん気で勉強に打ち込みだすと、旺盛な知識欲も刺激され、相乗効果で2年生に進学する頃には優等生となっていた。
ピンキーの教育方針はマッカーサーを優秀な人間に育成した一方で、限りなく自己中心的で自閉的な人間にしていった。マッカーサーは自分の間違いを認めることができない人間となっていき、常に「世間の人間は自分を陥れようとしている」と被害妄想を抱くようになっていた。そのせいでマッカーサーはウェスト・テキサス軍人養成学校から進学したウエスト・ポイントで同級生の中で孤立しており、ウエスト・ポイントの卒業生の結婚式では、卒業生の団結力を反映してクラスメイト達の華やかな社交の場となるのが通例であるが、マッカーサーの結婚式にはたった1名の同級生しか出席しなかった。ピンキーの教育は、マッカーサーに純粋な同志的友情を構築する能力を欠乏させたが、マッカーサー自身も友人を必要とはしなかった。
マッカーサーの私生活にもピンキーは多大な影響を及ぼしていた。ピンキーはマッカーサーの最初の結婚相手ルイーズを気に入らず、婚約したと聞いたときに傷心のあまりに病床についたほどであった。ルイーズが資産家であったため式は豪華なものであったが、ピンキーは招待を断り式には参列しなかった。結婚してからもピンキーとルイーズのそりは合わず、ルイーズは後に離婚に至った原因として「義母(ピンキー)がいろいろ口出しするので、私たちの結婚は破局を迎えることとなった」と話している。
マッカーサーは2度目のフィリピン勤務時に、当時で33歳歳下で16歳のイザベルを愛人とし、自分がアメリカ本土に異動となると、イザベルをアメリカに呼び寄せたが、ピンキーに知られたくなかったため、ピンキーと同居している自宅に呼び寄せることができずに、ジョージタウン (ワシントンD.C.)にアパートを借りそこで囲わねばならなかった。 ピンキーの目を盗んで密会しないといけないのと、マッカーサーが参謀総長に就任し多忙になったため、次第にマッカーサーとイザベルは疎遠となっていった。マッカーサーはイザベルをフィリピンに帰らせようとフィリピン行きの船のチケットを渡したが、イザベルはフィリピンに帰らずマッカーサーに金を無心してきたため、困ったマッカーサーはイザベルに経済的な自立を促そうと求人情報のチラシを送りつけている。結局、イザベルはマッカーサーと敵対したジャーナリストに協力し、スキャンダルとなって世間やピンキーにイザベルとの関係を知られたくなかったマッカーサーの弱みに付け込み15,000ドルの慰謝料を受け取ることに成功している。
マッカーサーが軍事顧問に就任し3回目のフィリピン行きとなったとき、82歳となっていたピンキーは付いていくこととしたが、フィリピンに向かう船中で初めて会ったジーンをピンキーは即座に気に入り、ピンキーのお墨付きとなったジーンとマッカーサーは船中で意気投合し交際を開始、その後ジーンはマッカーサーの2番目の妻となったが、ピンキーはその結婚を見ることなく1935年11月にフィリピンに到着した直後に亡くなっている。マッカーサーの落ち込み方は相当なもので、フィリピンでマッカーサーの副官をしていたアイゼンハワーは「将軍の気持ちに何か月もの間、影響を及ぼした」と書き記したほどであった。

その他

兄のアーサー・マッカーサー3世はアメリカ海軍兵学校に入学し、海軍大佐に昇進したが、1923年に病死した。弟マルコムは1883年に死亡している。兄アーサーの三男であるダグラス・マッカーサー2世は駐日アメリカ合衆国大使となった。
1938年にマニラで妻ジーンとの間に出来た長男がいる。マッカーサー家は代々、家長とその長男がアーサー・マッカーサーを名乗ってきたが、兄アーサー・マッカーサー3世の三男がダグラス・マッカーサー2世になり、三男であるダグラスの長男がアーサー4世になっている。
そのアーサー・マッカーサー4世は、日本在住の時にはマッカーサー元帥の長男として日本のマスメディアで取り上げられることもあった。マッカーサーとジーンは父親らと同様に軍人になることを願ったが、父の功績により無試験で入学できた陸軍士官学校には進まず、コロンビア大学音楽科に進み、ジャズ・ピアニストとなった。マッカーサーはアーサーの選択を容認したが、そのことについて問われると「私は母の期待が大変な負担であった。一番になるということは本当につらいことだよ。私は息子にそんな思いはさせたくなかった。」と答えたという。それでもマッカーサーという名前はアーサーにとっては負担でしかなかったのか、マッカーサーの死後は名前と住所を変え、グリニッジ・ヴィレッジに集まるヒッピーの一人になったと言われている。

マッカーサーのアメリカ議会証言録

総司令官解任後の1951年5月3日から、マッカーサーを証人とした上院の軍事外交共同委員会が開催された。主な議題は「マッカーサーの解任の是非」と「極東の軍事情勢」についてであるが、日本についての質疑も行われている。

日本が戦争に突入した目的は主として安全保障(security)によるもの

質問者より朝鮮戦争における中華人民共和国(赤化中国)に対しての海空封鎖戦略についての意見を問われ、太平洋戦争での経験を交えながら下記のように答えている。

STRATEGY AGAINST JAPAN IN WORLD WAR II

  • Senator Hicknlooper. Question No.5: Isn’t your proposal for sea and air blockade of Red China the same strategy by which Americans achieved victory over the Japanese in the Pacific?
(ヒックンルーパー上院議員・第5質問:赤化中国に対する海空封鎖というあなたの提案は、アメリカが太平洋において日本に勝利したのと同じ戦略ではありませんか?)
  • General MacArthur. Yes, sir. In the Pacific we by-passed them. We closed in.・・・
There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm. They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack great many other things, all of which was in the Asiatic basin.
They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore in going to war was largely dictated by security.
The raw materials — those countries which furnished raw materials for their manufacture — such countries as Malaya, Indonesia, the Philippines, and so on — they, with the advantage of preparedness and surprise, seized all those bases, and their general strategic concept was to hold those outlying bastions, the islands of the Pacific, so that we would bleed ourselves white in trying to reconquer them, and that the losses would be so tremendous that we would ultimately acquiesce in a treaty which would allow them to control the basic products of the places they had captured.
In meeting that, we evolved an entirely new strategy. They held certain bastion points, and what we did was to evade those points, and go around them.
We came in behind them, and we crept up and crept up, and crept up, always approaching the lanes of communication which led from those countries, conquered countries, to Japan.
(マッカーサー将軍:はい。太平洋において、我々は、彼らを回避して、これを包囲しました。(中略)・・・日本は産品がほとんど何もありません、蚕を除いて。日本には綿がない、羊毛がない、石油製品がない、スズがない、ゴムがない、その他多くの物がない、が、その全てがアジア地域にはあった。日本は恐れていました。もし、それらの供給が断ち切られたら、日本では1000万人から1200万人の失業者が生じる。それゆえ、日本が戦争に突入した目的は、主として安全保障(security)によるものでした。原材料、すなわち、日本の製造業に必要な原材料、これを提供する国々である、マレー、インドネシア、フィリピンなどは、事前準備と奇襲の優位により日本が占領していました。日本の一般的な戦略方針は、太平洋上の島々を外郭陣地として確保し、我々がその全てを奪い返すには多大の損失が生じると思わせることによって、日本が占領地から原材料を確保することを我々に黙認させる、というものでした。これに対して、我々は全く新規の戦略を編み出しました。日本軍がある陣地を保持していても、我々はこれを飛び越していきました。我々は日本軍の背後へと忍び寄り、忍び寄り、忍び寄り、常に日本とそれらの国々、占領地を結ぶ補給線に接近しました。)— p.170、General Macarthur Speeches & Reports: 1908-1964

秦郁彦は、小堀桂一郎などの東京裁判批判を行う論客たちがこの発言を「(マッカーサーが太平洋戦争を)自衛戦争として認識していた証拠」として取り上げる論点であると指摘している。小堀はこの個所を「これらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼ら(日本政府・軍部)は恐れてゐました。したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分がsecurity(安全保障)の必要に迫られてのことだつたのです」と訳している。また、米国人のケント・ギルバートは、「日本の戦争は、安全保障(自衛)が動機だった」と訳している。

日本人は12歳

公聴会3日目は5月5日の午前10時35分から始まり、午前12時45分から午後1時20分まで休憩を挟んだ後に、マッカーサーの日本統治についての質疑が行われた。マッカーサーはその質疑の中で、人類の歴史において占領の統治がうまくいったためしがないが、例外としてジュリアス・シーザーの占領と、自らの日本統治があるとし、その成果により一度民主主義を享受した日本がアメリカ側の陣営から出ていくことはないと強調したが、質問者のロング委員よりヴァイマル共和政で民主主義を手にしながらナチズムに走ったドイツを例に挙げ、質問を受けた際の質疑が下記の通りである。

RELATIVE MATURITY OF JAPANESE AND OTHER NATIONS

  • Senator Long.(ロング上院議員)
Germany might be cited as an exception to that, however. Have you considered the fact that Germany at one time had a democratic government after World War I and later followed Hitler, and enthusiastically apparently at one time.
(しかしドイツはそれに対する例外として挙げられるかも知れません。ドイツは一度、第一次世界大戦の後に民主主義の政府を有したのに、その後、一時は熱狂的にヒトラーの後を追ったという事実をあなたは考慮しましたか?)
  • General MacArthur. (マッカーサー元帥)
Well, the German problem is a completely and entirely different one from the Japanese problem. The German people were a mature race. If the Anglo-Saxon was say 45 years of age in his development, in the sciences, the arts, divinity, culture, the Germans were quite as mature.
The Japanese, however, in spite of their antiquity measured by time, were in a very tuitionary condition. Measured by the standards of modern civilization, they would be like a boy of 12 as compared with our development of 45 years.
Like any tuitionsonary period, they were susceptible to following new models, new ideas. You can implant basic concepts there. They were still close enough to origin to be elastic and acceptable to new concepts.
The German was quite as mature as we ware. Whatever the German did in dereliction of the standards of modern morality, the international standards, he did deliberately.
He didn’t do it because of a lack of knowledge of the world. He didn’t do it because he stumbled into it to some extent as the Japanese did. He did it as a considered policy in which he believed in his own military might, in which he believed that its application would be a short cut to the power and economic domination that he desired.
Now you are not going to change the German nature. He will come back to the path that he believes is correct by the pressure of public opinion, by the pressure of world philosophies, by his own interests and many other reasons, and he, in my belief, will develop his own Germanic tribe along the lines that he himself believes in which do not in many basic ways differ from our own.
But the Japanese were entirely different. There is no similarity. One of the great mistakes that was made was to try to apply the same policies which were so successful in Japan to Germany, where they were not quite so successful,to say the least.
They were working on a different level.
(まぁ、ドイツの問題は日本の問題と完全に、そして、全然異なるものでした。ドイツ人は成熟した人種でした。アングロサクソンが科学、芸術、神学、文化において45歳の年齢に達しているとすれば、ドイツ人は同じくらい成熟していました。しかし日本人は歴史は古いにもかかわらず、教えを受けるべき状況にありました。現代文明を基準とするならば、我ら(アングロサクソン)が45歳の年齢に達しているのと比較して日本人は12歳の少年のようなものです。他のどのような教えを受けている間と同様に、彼等は新しいモデルに影響されやすく、基本的な概念を植え付ける事ができます。日本人は新しい概念を受け入れる事ができるほど白紙に近く、柔軟性もありました。ドイツ人は我々と全く同じくらい成熟していました。ドイツ人が現代の国際的な規範や道徳を放棄したときは、それは故意によるものでした。ドイツ人は国際的な知識が不足していたからそのような事をしたわけではありません。日本人がいくらかはそうであったように、つい過ってやったわけでもありません。ドイツ自身の軍事力を用いることが、彼等が希望した権力と経済支配への近道であると思っており、熟考の上に軍事力を行使したのです。現在、あなた方はドイツ人の性格を変えようとはしないはずです。ドイツ人は世界哲学の圧力と世論の圧力と彼自身の利益と多くの他の理由によって、彼等が正しいと思っている道に戻っていくはずです。そして、我々のものとは多くは変わらない彼等自身が考える路線に沿って、彼等自身の信念でゲルマン民族を作り上げるでしょう。しかし、日本人はまったく異なりました。全く類似性がありません。大きな間違いの一つはドイツでも日本で成功していた同じ方針を適用しようとしたことでした。控え目に言っても、ドイツでは同じ政策でも成功していませんでした。ドイツ人は異なるレベルで活動していたからです。)— p.312、Military situation in the Far East. Corporate Author: United States.(1951)

この発言が多くの日本人には否定的に受け取られ、日本におけるマッカーサー人気冷却化の大きな要因となった。当時の日本人はこの発言により、マッカーサーから愛されていたのではなく、“昨日の敵は今日の友”と友情を持たれていたのでもなく、軽蔑されていたに過ぎなかったことを知ったという指摘がある。

さらにマッカーサーは、同じ日の公聴会の中で「日本人は12歳」発言の前にも「日本人は全ての東洋人と同様に勝者に追従し敗者を最大限に見下げる傾向を持っている。アメリカ人が自信、落ち着き、理性的な自制の態度をもって現れた時、日本人に強い印象を与えた。」「それはきわめて孤立し進歩の遅れた国民(日本人)が、アメリカ人なら赤ん坊の時から知っている『自由』を初めて味わい、楽しみ、実行する機会を得たという意味である。」などと日本人を幼稚と見下げて、「日本人は12歳」発言より強く日本人を侮辱したと取られなかねない発言も行っていた。

また、自分の日本の占領統治をシーザーの偉業と比肩すると自負したり、「(日本でマッカーサーが行った改革は)イギリス国民に自由を齎したマグナ・カルタ、フランス国民に自由と博愛を齎したフランス革命、地方主権の概念を導入した我が国のアメリカ独立戦争、我々が経験した世界の偉大な革命とのみ比べることができる。」と証言しており、マッカーサーは証言で、自身が日本で成し遂げたと考えていた業績を弁護していたという解釈もある。

一方で、マッカーサーは「老兵は死なず……」のフレーズで有名な1951年4月19日の上下両院議員を前にした演説では「戦争以来、日本人は近代史に記録された中で最も立派な改革を成し遂げた」や「賞賛に足る意志と、学習意欲と、抜きんでた理解力をもって、日本人は戦争が残した灰の中から、個人の自由と人格の尊厳に向けた大きな建造物を建設した。政治的にも、経済的にも、そして社会的にも、今や日本は地球上にある多くの自由国家と肩を並べており、決して再び世界の信頼を裏切る事はないであろう。」と日本を称賛しており、「日本人は12歳」発言は日本人はドイツ人より信頼できることを強調したかっただけでマッカーサーの真意がうまく伝わらなかったという解釈や、マッカーサーと関係が深かった吉田茂のように「元帥の演説の詳細を読んでみると「自由主義や民主主義政治というような点では、日本人はまだ若いけれど」という意味であって「古い独自の文化と優秀な素質とを持っているから、西洋風の文物制度の上でも、日本人の将来の発展は頗る有望である」ということを強調しており、依然として日本人に対する高い評価と期待を変えていないのがその真意である。」と好意的な解釈もある。なぜマッカーサーが「12歳」と言って「13歳」でなかったのかは、英語の感覚で言えば12歳は「ティーンエイジャー」ではまだないということである。まだ精神年齢が熟しきっておらず、新しい事柄を受け入れることが可能だと強調しているのである。

マッカーサー記念館

ノーフォークのノーティカスから東へ約400m行ったところにあるダウンタウンのマッカーサー・スクエアには、19世紀の市庁舎をそのまま記念館としたダグラス・マッカーサー記念館が立地している。館内にはマッカーサー夫妻の墓や、博物館、図書館が設けられている。博物館には軍関連品だけでなく、マッカーサーのトレードマークであったコーンパイプなどの私物も多数展示されている。また、伊万里、九谷、薩摩の磁器や有線七宝など、マッカーサーが持ち帰った日本の工芸品も展示されている。建物は「旧ノーフォーク市庁舎」として国家歴史登録財に指定されている。記念館の正面にはマッカーサーの銅像が立っている。

日本でもマッカーサー解任前後に「マッカーサー記念館」を建設する計画が発足した。この建設発起人には秩父宮、田中耕太郎最高裁判所長官、金森徳次郎国立国会図書館館長、野村吉三郎元駐米大使、本田親男毎日新聞社長、長谷部忠朝日新聞社長ら各界の有力者が名を連ねていた。この施設は「マッカーサー神社」と呼称されていることがあるが、この計画はマッカーサー在任中から「ニュー・ファミリー・センター」という団体が計画していた「青年の家」という青少年の啓蒙施設の建設計画を発展させたものであり、「元帥の功績を永遠に記念するため、威厳と美しさを備えた喜びと教養の殿堂にしたい。」という趣旨の下で、記念館、公会堂、プール、運動施設、宿泊施設を整備するものであって、特に宗教色のない計画であった。

その後に当初の14名の発起人に加え、藤山愛一郎日本商工会議所会頭、浅沼稲次郎社会党書記長、安井誠一郎東京都知事らも参加して「マッカーサー会館建設期成会」が発足、まずは総事業費4億5,000万円をかけて三宅坂の参謀本部跡に鉄筋コンクリートの3階建ビルを建てる計画で募金を募ったが、募金開始が「日本人は12歳」発言でマッカーサー熱が急速に冷却化していた1952年2月であり、60万円の宣伝費をかけて集まった募金はわずか84,000円と惨憺たる有様だった。1年後には募金どころか借金が300万円まで膨らみ、計画は立ち消えになった。他にも東京湾に「マッカーサー灯台」を建設し、降伏調印式の際に戦艦ミズーリが停泊した辺りを永遠に照らす計画や、また「マッカーサー記念館」や「マッカーサー灯台」の計画より前の1949年には浜離宮に自由の女神像と同じ高さのマッカーサーの銅像を建設しようとする「マッカーサー元帥銅像建設会」が発足していた。随筆家高田保にも委員就任の勧誘がなされるなど広い範囲に声がかけられ(ただし高田は委員就任を見送り)募金も開始されたが、これも他の計画と同じ時期に立ち消えになり、集まった募金の行方がどうなったか不明である。

人物評

マッカーサーの下で太平洋戦争を戦った第5空軍司令のジョージ・ケニー中将がマッカーサーについて「ダグラス・マッカーサーを本当に知る者はごくわずかしかいない。彼を知る者、または知っていると思う者は、彼を賛美するか嫌うかのどちらかで中間はあり得ない。」と評しているように、評価が分れる人物である。

マッカーサーにとって忠誠心とは部下から一方的に向けられるものとの認識であり、自分が仕えているはずの大統領や軍上層部に対する忠誠心を持つことはなかったため、マッカーサーに対する歴代大統領や軍上層部の人物評は芳しいものではなかった。

ルーズベルトは「マッカーサーは使うべきで信頼すべきではない。」「我が国で最も危険な人物2人はヒューイ・ロングとダグラス・マッカーサーだ。」とマッカーサーの能力の高さを評価しながら信用はしてはおらず、万が一に備えてマッカーサーが太平洋戦争開戦前に軍に提出した『日本軍が我が島嶼への空襲能力を欠くため、フィリピンは保持できる』という報告書を手もとに保管していた。また、政治への進出にマッカーサーが強い野心を抱いているのを見抜いて「ダグラス、君は我が国最高の将軍だが、我が国最悪の政治家になると思うよ」 と釘を刺したこともあった。

更迭に至るまで激しくマッカーサーと対立していたトルーマンの評価はもっと辛辣で、就任間もない1945年に未だ直接会ったこともないマッカーサーに対し「あのうぬぼれやを、あのような地位につけておかなかればならないとは。なぜルーズベルトはマッカーサーをみすみす救国のヒーローしたてあげたのか、私にはわからない・・・もし我々にマッカーサーのような役者兼ペテン師ではなくウェインライトがいたならば、彼こそが真の将軍、戦う男だった」と否定的な評価をしていた。しかしマッカーサーの圧倒的な実績と人気に、全く気が進まなかったがGHQの最高司令官に任命している。トルーマンのマッカーサーへの評価は悪化する事はあっても改善することはなく、1948年にはマッカーサーを退役させ、西ドイツの軍政司令官ルシアス・D・クレイGHQ最高司令官の後任にしようと画策したこともあったが、トルーマンの打診をクレイは断り実現はしなかった。

朝鮮戦争において、当初は参謀本部副参謀長としてマッカーサーの独断専行に振り回され、後にマッカーサーの後任として国連軍を率いたリッジウェイはマッカーサーの性格について、「自分がやったのではない行為についても名誉を受けたがったり、明らかな自分の誤りに対しても責任を否認しようという賞賛への渇望」「多くの将兵の前で常にポーズをとりたがる、人目につく立場への執着」「天才に必要な孤独を愛する傾向」「論理的な思考を無視してなにものかに固執する、強情な性質」「無誤謬の信念を抱かせた、自分自身に対する自信」と分析していた。一方で、マッカーサーの問題の核心を明らかにする能力と、目標に向かって迅速・果敢に行動する積極性に対して、他の人はマッカーサーを説き伏せたり、強く反駁することは困難であって、マッカーサーに疑いを抱くものは逆に自分自身を疑わせてしまうほど真に偉大な将帥の一人であったと賞賛もしている。

上司にあたる人物よりの評価が厳しい一方で、部下らからの評価や信頼は高かった。GHQでマッカーサーの下で働いた極東空軍司令のジョージ.E.ストラトメイヤー中将は「アメリカ史における最も偉大な指導者であり、最も偉大な指揮官であり、もっとも偉大な英雄」と称え、第10軍司令官エドワード・アーモンド中将は「残念ながら時代が違うので、ナポレオン・ボナパルトやハンニバルら有史以来の偉大な将軍らと同列に論ずることはできないが、マッカーサーこそ20世紀でもっとも偉大な軍事的天才である。」とライフ誌の取材に答えている。

特にフィリピン時代からマッカーサーに重用されていた『バターン・ギャング』と呼ばれたGHQ幕僚たちのマッカーサーに対する評価と信頼は極めて高く、その内の一人であるウィロビーは、マッカーサーに出した手紙に「あなたに匹敵する人物は誰もいません、結局人々が愛着を覚えるのは偉大な指導者、思想ではなく、人間です。・・・紳士(ウィロビーのこと)は大公(マッカーサー)に仕えることができます。そのような形で勤めを終えることができれば本望です。」と書いたほどであった。

しかし、ウィロビーらのように盲目的に従ってくれているような部下であっても、マッカーサーは部下と手柄を分かち合おうという認識はなく、部下がいくらでも名声を得るのに任せたアイゼンハワーと対照的だった。例えば、マッカーサーの配下で第8軍を指揮したロバート・アイケルバーガー大将が、サタデー・イブニング・ポストなどの雑誌にとりあげられたことがあったが、これがマッカーサーの不興を買い、マッカーサーはアイケルバーガーを呼びつけると「私は明日にでも君を大佐に降格させて帰国させることが出来る。分っているのか?」と叱責したことがあった。叱責を受けたアイケルバーガーは「作戦勝報に自分の名前が目立つぐらいならポケットに生きたガラガラヘビを入れてもらった方がまだましだ。」と部下の広報士官に語っている。

マッカーサーの指揮下で上陸作戦の指揮を執ったアメリカ海軍第7水陸両用部隊司令ダニエル・バーベイ少将は、海軍の立場から、そのようなマッカーサーと陸軍の部下将官との関係を冷静に観察しており、「マッカーサーが自分の側近たちと親しい仲間意識をもつことは決してなかった。彼は尊敬されはしたが、部下の共感と理解を得ることは無かったし、愛されもしなかった。彼の態度はあまりにもよそよそしすぎ、その言動はもちろん、服装に至るまで隙が無さ過ぎた。」と評している。

マッカーサーとアイゼンハワー

マッカーサーを最もよく知る者の1人が7年間に渡って副官を勤めたアイゼンハワーであった。アイゼンハワーはマッカーサー参謀総長の副官時代を振り返って、「マッカーサー将軍は下に仕える者として働き甲斐のある人物である。マッカーサーは一度任務を与えてしまうと時間は気にせず、後で質問することもなく、仕事がきちんとなされることだけを求められた。」「任務が何であれ、将軍の知識はいつも驚くほど幅広く、概ね正確で、しかも途切れることなく言葉となって出てきた。」「将軍の能弁と識見は、他に例のない驚異的な記憶力のたまものであった。演説や文章の草稿は、一度読むと逐語的に繰り返すことができた。」と賞賛している。

しかしアイゼンハワーは、マッカーサーの側近として長年働きながら、「バターン・ギャング」のサザーランドやホイットニーにように、マッカーサーの魅力に絡めとられなかった数少ない例外であり、フィリピンでの副官時代は、「バターン・ギャング」の幕僚らとは異なり、マッカーサーとの議論を厭わなかった。アイゼンハワーのマッカーサーに対する思いの大きな転換点となったのが、マッカーサーがリテラリー・ダイジェストという雑誌の記事を鵜呑みにし、1936年アメリカ合衆国大統領選挙ルーズベルトが落選するという推測を広めていたのをアイゼンハワーが止めるように助言したのに対し、マッカーサーは逆にアイゼンハワーを怒鳴りつけたことであった。この日以降、アイゼンハワーはマッカーサーの下で働くのに辟易とした素振りを見せ、健康上の理由で本国への帰還を申し出たが、アイゼンハワーの実務能力を重宝していたマッカーサーは慌てて引き留めを図っている。両者の関係を決定づけたのは、この後に起こった、マッカーサー独断でのフィリピン軍によるマニラ行進計画がケソンの怒りを買ったため、アイゼンハワーら副官に責任転嫁をした事件であり、アイゼンハワーはこの事件で「決して再び、我々はこれまでと同じ温かい、心からの友人関係にはならなかった。」と回想している。

この後、連合国遠征軍最高司令官、アメリカ陸軍参謀総長と順調に経歴を重ねていくアイゼンハワーは、ある婦人にマッカーサーを知っているか?と質問された際に「会ったところじゃないですよ、奥さん。私はワシントンで5年、フィリピンで4年、彼の下で演技を学びました。」と総括したとも伝えられている。

ただ、当時のアメリカの一部マスコミが報じていた程は両者間に強い確執はなかったようで、アイゼンハワーは参謀総長在任時に何度もマッカーサーに意見を求める手紙や、参謀総長退任時には、マッカーサーとアイゼンハワーの対立報道を否定する手紙を出すなど、両者は継続して連絡を取り合っていた。しかし、アイゼンハワーが第34代アメリカ合衆国大統領に着任すると、その付き合いは表面的なものとなり、アイゼンハワーがマッカーサーをホワイトハウスに昼食に招いた際には、懸命に助言を行うマッカーサーに耳を貸すことはなかったため、マッカーサーは昼食の席を立った後に、記者団に対して「責任は権力とともにある。私はもはや権力の場にはいないのだ。」と不機嫌そうに語っている。

エピソード

日本での生活

  •  日本滞在時のマッカーサーの生活は、朝8時に起床、家族と遅い朝食をとって10時に連合国軍最高司令官総司令部のある第一生命館に出勤、14時まで仕事をすると、昼休みのために日本滞在中の住居であったアメリカ大使公邸に帰宅し、昼食の後昼寝、16時に再度出勤し、勤務した後20時ごろ帰宅、夕食の後、妻ジーンや副官とアメリカから取り寄せた映画を観る、というのが日課だった。好きな映画は西部劇であった。マッカーサーはこのスケジュールを土日もなく毎日繰り返し、休みを取らなかった。日本国内の旅行は一切せず、遠出は厚木や羽田に重要な来客を迎えに行くときだけで、国外へも朝鮮戦争が始まるまでは、フィリピンと韓国の独立式典に出席した時だけだった。しかし例外として、ミズーリ艦上での降伏文書調印式を終えた後に鎌倉の鶴岡八幡宮を幕僚とともに参拝したことが、1945年9月18日の『読売報知』で報じられている。マッカーサーにとって40年ぶりの訪問だったといわれる。
  • 日本での住居は駐日アメリカ合衆国大使館公邸となったが、来日前は第8軍司令官アイケルバーガーに「私は皇居に住むつもりだ」と興奮して語っていた。大使公邸は1930年に当時の大統領フーヴァーがアメリカの国力を日本に誇示する為、当時の金額で100万ドルの巨費等投じて建築した耐震構造の頑丈な造りであり、空襲でも全壊はしなかったが、爆弾やその破片が屋根を貫通し室内は水浸しになって家具類は全滅していた。修理のために多くの日本人の職人が集められて修繕工事が行われたが、テーブルクロス・カーテンはハワイ、揺り椅子はブリスベンなど世界中から家具や室内装飾を取り寄せ、また宝石をちりばめた煙草入れや銀食器などの高級小物も揃えられた。また長男アーサーの玩具にマッカーサー愛用のコーンパイプを模した銀のパイプや象牙で作った人形なども揃えられた。コレヒドールからの脱出に同行した中国人使用人のアー・チュも引き続き使用人として一緒に来日したほか、マニラ・ホテルでボーイをしていたカルロスも呼び寄せ、日本人召使もクニとキヨという女性を含め数名が雇用されたが、日本人召使はアメリカの紋章が刺繍された茶色の着物をユニホームとして着せられていた。アメリカから実情調査にやってきたホーマー・ファガ―ソン上院議員は、このようなマッカーサーの豪勢な生活ぶりを見て「この素晴らしい宮殿はいったい誰のものかね?」と皮肉を言ったため、GHQのウィリアム・ジョセフ・シーボルド外交局長がフォローしている。
  • マッカーサーは財布を持ち歩く習慣がなかったため、買い物は妻のジーンが全て行っていた。ジーンは最高司令官の妻にも関わらず、自ら銀行口座を開設に行って家計を管理し、PXの長い行列に並んでいた。PXのマネージャーはそんなジーンを見て「日本にいる将軍の夫人の中で、特別待遇をお求めにならないのは貴方だけです。」と感心している。マッカーサーが出先で買い物をする必要があったときは、副官が立て替えて、後にジーンが副官に支払っていた。
  • マッカーサーが日本人と会うことはほとんどなく、定期的に会っていたのは昭和天皇と吉田茂ぐらいであった。他は不定期に閣僚や、女性参政権により初当選した35名の女性議員や、水泳の全米選手権出場の古橋広之進ら日本選手団などを招いて会う程度であった。古橋らと面談したマッカーサーは「これ(パスポート)に私がサインすると出られるから、行ってこい。その代わり、負けたらだめだ。負けても卑屈になってはいけない。勝ったからといっておごってはだめだ。行く以上は頑張れ。負けたら、ひょっとして帰りのビザは取り消しになるかもわからない」と冗談を交えながら選手団を励ましてる。
  • マッカーサーは日本滞在中に2回だけ病気に罹っている。一度目は歯に膿瘍ができ抜歯したときで、もう一度が喉にレンサ球菌が感染したときであるが、マッカーサーは医者嫌いであり、第一次世界大戦以降にまともに身体検査すらしていなかったほどであった。熱が出たため軍医がペニシリンを注射しようとしたところ、マッカーサーは注射を恐れており「針が身体に刺さるなんて信じられない」と言って注射を拒否し、錠剤だけを処方してもらったが、さらに症状は悪化し40度の高熱となったため、仕方なく注射を受けて数日後に快復した。
  • 日本滞在中、マッカーサーは秋田犬のウキ、柴犬とテリアの雑種のブラウニー、アメリカン・コッカー・スパニエルのブラッキー、スパニエル系のコーノの4匹の犬を飼っていた。その内でマッカーサーの一番のお気に入りはアメリカン・コッカー・スパニエルのブラッキーであった。また、栃木県在住の医師からカナリアを贈られて飼っていたが、1年後に更迭されて帰国することとなったため、そのカナリアは大使公邸でチーフ・コックをしていた林直一に下げ渡され、林は故郷に連れて帰って飼育した。
  • 朝鮮戦争が始まり、その指揮を任された総司令官にもかかわらず、朝鮮半島を嫌ったマッカーサーは一度も朝鮮に宿泊することがなかった。言い換えれば指揮や視察で、朝鮮を訪れても常に日帰りで、必ず夜には日本に戻っていた。その為に戦場の様子を十分に把握することができず、中国義勇軍参戦による苦戦の大きな要因となった。

目玉焼き事件

  • 厚木飛行場に降り立ったマッカーサーは、直接東京には入らず、横浜の「ホテルニューグランド」315号室に12泊した。滞在中のある日、マッカーサーは朝食に「2つ目玉の目玉焼き」と「スクランブルエッグ」をリクエストしたが、朝食で注文の品が並ぶことはなく、昼を過ぎてようやく「1つ目玉の目玉焼き」だけが運ばれてきた。マッカーサーは、料理人を呼び出して問いただしたところ、料理人は「将軍から命令を受けてから今まで八方手を尽くして、ようやく卵が一つ手に入りました」と答えた。その瞬間、マッカーサーは、日本が現在置かれている状況と、自分の為すべき仕事を理解したという。ただし、このエピソードを事実として証明する関係者の証言はない。
  • 当時のホテルニューグランド会長の野村洋三の回想によれば、マッカーサーがニューグランドに着いて最初に出された食事は冷凍のスケソウダラとサバ、酢をかけたキュウリ、そして鯨肉のステーキであり、マッカーサーはステーキを一口だけ食べると無言になり、後は手をつけなかった。その3日後、横浜港に停泊していた軍艦から山のように食料が荷揚げされたという。また、実際にテーブルには出されなかったものの、野村はマッカーサーらを迎える準備として、自身が理事をしていた横浜訓盲院から卵を10個融通してもらっている。
  • また、マッカーサーらのニューグランドでの初めての食事のウェイトレスをした霧生正子によれば、出したのはスケソウダラとポテトとスープであり、マッカーサーはスケソウダラを見るなり「これはなんだ?」と聞き、霧生が「スケソウダラです」と答えると、「こんなもの食べられるか」という顔をして手も付けず黙っていた。その後、食後のデザートに出したケーキにも手を付けず、黙って席を立っている。
  • マッカーサーの側近軍医ロジャー・O・エグバーグ医師もその食事の席に同席していたが、出されたのはスープとバター付きパンと冷凍の副食だったと証言している。またその日の夕食は、コートニー・ホイットニーによればビーフステーキであり、ホイットニーはマッカーサーの料理に毒が盛られていないか心配し、確認したいと申し出ると、マッカーサーは「誰も永遠には生きられないよ」と言って構わず手を付けた。この日の記憶はマッカーサー自身にはなかったようで、このホイットニーの記憶を自身の回想録に引用している。

マッカーサー元帥杯スポーツ競技会

  • 関西の実業家池田政三がスポーツにより日本の復興に寄与しようと、全国規模でのスポーツ大会の開催を計画した。池田はマッカーサーを敬愛していたことから、大会名を『マッカーサー元帥杯競技』とすることを望み、知人のアメリカ人実業家ウィリアム・メレル・ヴォーリズを通じマッカーサーと面会する機会を得て、自費で作成した大会のカップを持参し競技会開催を直談判した結果、マッカーサーより大会開催とマッカーサーの名前を大会名とすることを許可された。
  • 大会の種目は、池田との関係が深かった軟式テニス、硬式テニス、卓球の3種目となった。池田は私財から100万円の資金と、マッカーサーのサイン入りの3つの銀製カップを準備したが、『マッカーサー元帥杯』と冠名があっても、GHQは運営面での支援はせず、1948年8月開催の第一回の西宮大会の運営費24万円の内20万円は池田からの支援、残りは大会収入で賄われた。
  • 当時の日本では、GHQにより全体的行進、宗教的行動、国家斉唱、国旗の掲揚などが禁止されており、京都で開催された第1回国民体育大会の開会式は音楽もなく、選手宣誓と関係者挨拶の質素なものであったが、マ元帥杯は特別に入場行進も許可され、アメリカ軍の軍楽隊による演奏、マッカーサー、総理大臣、文部大臣(いずれも代理)による祝辞等、敗戦間もない当時としては、スポーツ大会らしからぬ絢爛豪華な開会式となった。競技会には男子271名女子120名合計391名が参加し盛大に行われた。優勝者には銀製カップの他にマッカーサーの横顔が刻印されたメダルと賞状も授与された。
  • マッカーサーが直接許可した大会であったためか、第2回目の東京大会は特別に皇居内で開催された。これは2016年時点で皇居内で行われた唯一の全国規模のスポーツ大会となる。その後は大会を主導していた日本体育協会の尽力もあり、第6回の長崎大会まで各地方都市で開催され、地方都市でのスポーツ振興に貢献することとなった。しかし、マッカーサーが更迭され、日本人は12歳発言で日本での人気が収束すると、『マッカーサー元帥杯』という大会名を見直そうという動きが始まり、第7回岡山大会では『マッカーサー記念杯全国都市対抗』という大会名に改称、第9回大会の開催地会津若松市からは「マ元帥杯」という名前は困るとの申し出があるに至り、1955年の第9回の会津若松市での大会は『全国市長会長杯』とマッカーサーの名前を一切排した大会名に改称され、『マッカーサー元帥杯』は8年で幕を下ろす事となった。その後もこの大会は形式や名称を変え最後は『全国都市対抗三競技大会』という名称となり、1975年の第30回大会(福岡市)まで継続された。その後、硬式テニスの全国大会のみが、翌1976年から開始された全日本都市対抗テニス大会に引き継がれている。

軍装

マッカーサーは将官ながら、正装の軍服を着用することが少なく、略装を好んだ。第一次世界大戦でレインボー師団の参謀長として従軍した際にはヘルメットを被らずわざと形を崩した軍帽、分厚いタートルネックのセーター、母メアリーが編んだ2mもある長いマフラーを着用し、いつもピカピカに磨いている光沢のあるブーツを履いて、手には乗馬鞭というカジュアルな恰好をしていた。部下のレインボー師団の兵士らもマッカーサーに倣ってラフな服装をしていたため、部隊を視察した派遣軍総司令官のパーシングは「この師団は恥さらしだ、兵士らの規律は不十分でかつ訓練は不適切で、服装は今まで見た中で最低だ」と師団長ではなく、元凶となったマッカーサーを激しく叱責したが、マッカーサーが自分のスタイルを変えることはなかった。

しかし、その風変わりな服装が危険を招いたこともあり、前線で指揮の為に地図を広げていたマッカーサーを見たアメリカ軍の他の部隊の兵士らが、普段見慣れない格好をしているマッカーサーをドイツ軍将校と勘違いし、銃を突き付け捕虜としたことがあった。

元帥となっても、重要な会合や、自分より地位が高い者と同席する場合でも略装で臨むことが多かったために、批判されたこともある。天皇との会見写真でも、夏の略装にノーネクタイというラフな格好で臨んだため、「礼を欠いた」「傲然たる態度」であると多くの日本国民に衝撃を与えた。不敬と考えた内務省は、この写真が掲載された新聞を回収しようと試みたが、GHQによって制止されたため、この写真は内務省による言論統制の終焉も証明することになった。ただし、当時のアメリカ大使館には冷房設備がなかったこともあり、夏の暑さを避けるためにマッカーサーは意図せず略装で迎えたともいわれている。

松本健一は、リチャード・ニクソンの回想において、マッカーサーの略式軍装は彼の奇行が習慣化したもので、1950年に朝鮮戦争問題で会見したトルーマンは、彼のサングラス、シャツのボタンを外す、金モールぎらぎらの帽子という「19かそこらの中尉と同じ格好」に憤慨したと述べている。また、マッカーサーの服装とスタイルには一種の「ダンディズム」ともいえる独特な性向があり、「天皇の前でのスタイルはいつものものでもはるかにましなものであった」とも指摘している。ニクソンが回想する「サングラス、色褪せた夏軍服、カジュアルな帽子、そしてコーンパイプ」という第二次世界大戦中のマッカーサーのスタイルは、まさに厚木飛行場に降り立った時の彼の姿であった。

コーンパイプ

 マッカーサーのトレードマークと言えばコーンパイプであるが、1911年にテキサス州で行われた演習の際の写真で、既に愛用しているのが確認できる。マッカーサーのコーンパイプはコーンパイプメイカー最大手のミズーリ・メシャム社の特注であり、戦時中にも関わらず、マッカーサーが同社のコーンパイプをくわえた写真が、同社の『ライフ』誌の広告に使用されている。

階級が上がるに従ってコーンパイプも大きくなっていき、タバコ葉を何倍も多く詰められるように深くなっている。現在ではこのような形のコーンパイプを「マッカーサータイプ」と呼ぶ。マッカーサーは自分のパイプを識別するために、横軸の真ん中あたりを軽く焼いて焦げ目をつけて印とした。現在のマッカーサータイプのコーンパイプも、機能には関係ないが、その印がされて販売されている。

しかし、マッカーサーの通訳官ジョージ・キザキによれば、マッカーサーは室内ではコーンパイプは一切使わず、ブライヤやメシャムの高級素材のパイプを愛用しており、屋外ではわざと粗野に映るコーンパイプを咥え、軍人としての荒々しさを演出していたと証言している。1948年の『ライフ』誌の報道では、当時マッカーサーが使用していた17本のパイプの内でコーン・パイプはわずか5本であった。

マッカーサー記念館にはマッカーサーが愛用したブライヤパイプとパイプ立てが展示されており、退任後に私人として『ライフ』誌の表紙に登場した際にくゆらせていたのもブライヤパイプであった。

日本キリスト教国化

マッカーサーは、国家神道が天皇制の宗教的基礎であり、日本国民を呪縛してきたものとして、SCAPIN-448「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(神道指令)で廃止を命じた。神道を国家から分離し、その政治的役割に終止符を打とうとする意図に基づく指令であった。一方でマッカーサーはキリスト教聖公会の熱心な信徒であり、キリスト教は「アメリカの家庭の最も高度な教養と徳を反映するもの」であり、「極東においてはまだ弱いキリスト教を強化できれば、何億という文明の遅れた人々が、人間の尊厳、人生の目的という新しい考えを身に付け、強い精神力を持つようになる」と考えていた。

そのような考えのマッカーサーにとって、日本占領は「アジアの人々にキリスト教を広めるのに、キリスト生誕以来の、比類ない機会」と映り、アメリカ議会に「日本国民を改宗させ、太平洋の平和のための強力な防波堤にする」と報告している。日本の実質最高権力者が、このように特定の宗教に肩入れするのは、マッカーサー自身が推進してきた信教の自由とも矛盾するという指摘が、キリスト教関係者の方からも寄せられることとなったが、マッカーサーはCIEの宗教課局長を通じ「特定の宗教や信仰が弾圧されているのでない限り、占領軍はキリスト教を広めるあらゆる権利を有する」と返答している。

マッカーサーはその権力をキリスト教布教に躊躇なく行使し、当時の日本は外国の民間人の入国を厳しく制限していたが、マッカーサーの命令によりキリスト教の宣教師についてはその制限が免除された。その数は1951年にマッカーサーが更迭されるまでに2,500名にもなり、宣教師らはアメリカ軍の軍用機や軍用列車で移動し、米軍宿舎を拠点に布教活動を行うなど便宜が与えられた。またポケット聖書連盟に要請して、日本語訳の聖書約1,000万冊を日本で無償配布している。

1947年7月に日本社会党の片山哲を首班とする片山内閣が発足したが、片山はクリスチャンであり、マッカーサーはクリスチャン片山の総理大臣就任を喜び「今や東洋の三大強国にキリスト教徒出身の首相、中国の蒋介石、フィリピンのマニュエル・ロハス、日本の片山哲が誕生してことは広く国際的な観点から見ても意義が深い。これは聖なる教えが確実に広まっている証である・・・これは人類の進歩である。」と断言し、片山内閣発足を祝福したが、マッカーサーの期待も空しく、片山内閣はわずか9ヶ月で瓦解した。

マッカーサーは自分自身を「ローマ法王と今日世界のキリスト教を代表する二大指導者」と胸を張り、全米キリスト教協議会もマッカーサーに対し「極東の救済のために神は“自らの代わり”として、あなたを差し向けたのだと、我々は信ずる。」と賞賛していたが、マッカーサーが、布教の成果を確認する為に、CIEの宗教課に日本のキリスト教徒数の調査を命じたところ、戦前に20万人の信者がいたのに対し、現在は逆に数が減っているということが判明し、その調査結果を聞いた宗教課局長は「総司令はこの報告に満足しないし、怒るだろう」と頭を抱えることになった。マッカーサーらはフィリピンとインドシナ以外のアジア人は、当時、キリスト教にほとんど無関心で、大量に配布された聖書の多くが、読まれることもなく、刻みタバコの巻紙に利用されているのを知らなかった。

局長から調査報告書を突き返された宗教課の将校らは、マッカーサーを満足させるためには0を何個足せばいいかと討議した挙句、何の根拠もない200万人というキリスト教徒数を捏造して報告した。マッカーサーもその数字を鵜呑みにして、1947年2月、陸軍省に「過去の信仰の崩壊によって日本人の生活に生じた精神的真空を満たす手段として・・・キリスト教を信じるようになった日本人の数はますます増え、既に200万人を超すものと推定されるのである。」と報告している。結局、マッカーサーが日本を去った1951年時点でキリスト教徒は、カトリック、プロテスタントで25万7,000人と、戦前の20万人と比較し微増したが、占領下に注がれた膨大な資金と、協会や宣教師の努力を考えると、十分な成果とは言えなかった。「占領軍の宗教」と看做され、他の宗教に比べて圧倒的に有利な立場にあったにも拘らず、マッカーサーの理想とした「日本のキリスト教国化」は失敗に終わった。

国際基督教大学

キリスト教の精神に基づき、宗派を越えた大学を作るといった構想がラルフ・ディッフェンドルファー宣教師を中心に進んでおり、「国際基督教大学 財団」が1948年に設立されたが、マッカーサーはこの動きに一方ならぬ関心を示し、同大学の財団における名誉理事長を引き受けると、米国での募金運動に尽力した。ジョン・ロックフェラー2世にも支持を求めたが、その際に「ここに提案されている大学は、キリスト教と教育のユニークな結合からして、日本の将来にとってまことに重要な役割を必ずや果たすことでありましょう。」と熱意のこもった手紙を出している。大学が開学となったのはマッカーサーが解任されて2年後の1953年であった。

その他

1946年に東京を訪れたハーバート・フーヴァーが、「フランクリン・ルーズベルトはドイツと戦争を行うために日本を戦争に引きずり込んだ」と述べたことを受け、マッカーサーは、「ルーズベルトは1941年に近衛文麿首相が模索した日米首脳会談をおこなって戦争を回避する努力をすべきであった」という旨を述べている。

占領当時のマッカーサーはフリーメイソンのフィリピン・グランドロッジ (Manila Lodge No.1) に所属しており、32位階の地位にあったとされる

マッカーサーを扱った作品

映画
『マッカーサー』 MacArthur (1977年 監督:ジョセフ・サージェント マッカーサー役:グレゴリー・ペック)
『インチョン!』 nchon! (1982年 監督:テレンス・ヤング マッカーサー役:ローレンス・オリヴィエ)
『太陽』 Солнце(2005年 監督:アレクサンドル・ソクーロフ マッカーサー役:ロバート・ドーソン)
『日輪の遺産』 (2010年 監督:佐々部清 マッカーサー役:ジョン・サヴェージ)
『終戦のエンペラー』 Emperor (2012年 監督:ピーター・ウェーバー マッカーサー役:トミー・リー・ジョーンズ)
『仁川上陸作戦』 (2016年 監督:イ・ジェハン マッカーサー役:リーアム・ニーソン)
宝塚歌劇
『黎明の風』 マッカーサー役:大和悠河
演劇
『引退屋リリー』(つかこうへい) ヒロインがマッカーサーと美空ひばりの偽物との間にできた隠し子との設定
漫画
『どついたれ』(手塚治虫)
『天下無双 江田島平八伝』(宮下あきら)
『はだしのゲン』(中沢啓治)

階級

  • 中尉, 1904年4月23日
  • 大尉, 1911年2月27日
  • 少佐, 1915年12月11日
  • 大佐, 1917年8月5日
  • 准将, 1918年6月26日
  • 少将, 1925年1月17日
  • 大将 アメリカ陸軍参謀総長, 1930年11月21日
  • 参謀総長退任のため、少将に復帰, 1935年10月1日
  • 退役、退役者リストには最高位の大将で記載, 1937年12月31日
  • 少将で現役復帰, 1941年7月26日
  • 中将, 1941年7月27日
  • 大将, 1941年12月18日
  • 元帥, 1944年12月18日

その他の国における階級

  • フィリピン元帥 – 1936年8月24日 – 1937年12月31日

賞罰

マッカーサーは国内外で多くの賞を受けたが、主なものを記載する。マッカーサーはアメリカ国内だけでも100個以上の勲章を受けているが、5つ星の元帥章以外は略綬さえ一切身に付けなかった。栄誉を飾らないのがマッカーサーの流儀であった。

アメリカ国内

  • 名誉勲章
  • 殊勲十字賞5回
  • シルバースター7回
  • 殊勲飛行十字章
  • ブロンズスターメダル
  • パープルハート章
  • エア・メダル
  • 他多数

アメリカ国外

  • 旭日章(勲一等旭日桐花大綬章ほか)
  • バス勲章
  • レジオンドヌール勲章
  • ポーランド復興勲章
  • 武功勲章
  • 他多数

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