Hillary Clinton : ヒラリー・クリントン

Hillary Diane Rodham Clinton (born October 26, 1947) is an American politician and diplomat who served as the First Lady of the United States from 1993 to 2001, U.S. Senator from New York from 2001 to 2009, 67th United States Secretary of State from 2009 to 2013, and the Democratic Party’s nominee for President of the United States in the 2016 election.

Born in Chicago, Illinois and raised in the Chicago suburb of Park Ridge, Clinton graduated from Wellesley College in 1969 and earned a Juris Doctor from Yale Law School in 1973. After serving as a congressional legal counsel, she moved to Arkansas and married Bill Clinton in 1975. In 1977, she co-founded Arkansas Advocates for Children and Families. She was appointed the first female chair of the Legal Services Corporation in 1978 and became the first female partner at Rose Law Firm the following year. As First Lady of Arkansas, she led a task force whose recommendations helped reform Arkansas’s public schools.

As First Lady of the United States, Clinton was an advocate for gender equality and healthcare reform. Her marital relationship came under public scrutiny during the Lewinsky scandal, which led her to issue a statement that reaffirmed her commitment to the marriage. In 2000, Clinton was elected as the first female Senator from New York. She was reelected to the Senate in 2006. Running for president in 2008, she won far more delegates than any previous female candidate but lost the Democratic nomination to Barack Obama.

During her tenure as U.S. Secretary of State in the Obama Administration from 2009 to 2013, Clinton responded to the Arab Spring by advocating military intervention in Libya. She helped to organize a diplomatic isolation and international sanctions regime against Iran in an effort to force curtailment of that country’s nuclear program; this would eventually lead to the multinational Joint Comprehensive Plan of Action agreement in 2015. Upon leaving her Cabinet position after Obama‘s first term, she wrote her fifth book and undertook speaking engagements.

Clinton made a second presidential run in 2016. She received the most votes and primary delegates in the 2016 Democratic primaries and formally accepted her party’s nomination for President of the United States on July 28, 2016 with vice presidential running mate Senator Tim Kaine. She became the first female candidate to be nominated for president by a major U.S. political party. She lost the presidential election to Republican opponent Donald Trump despite winning a plurality of the popular vote. She received more than 65 million votes, the 3rd-highest count in a U.S. presidential election, behind Obama‘s victories in 2008 and 2012. Following her loss, she wrote her third memoir, What Happened, and launched Onward Together, a political action organization dedicated to fundraising for progressive political groups.

ヒラリー・ローダム・クリントン (1947年10月26日 – )は、アメリカ合衆国の政治家、弁護士。国務長官、上院議員を歴任。第42代アメリカ合衆国大統領ビル・クリントンの妻であり、1993年から2001年までアメリカ合衆国のファーストレディだった。

生い立ちと教育

1947年、イリノイ州シカゴに衣料品店を営む両親のもとに生まれた。一家はメソジスト教派であり、彼女は白人中産階級が多く住むイリノイ州パークリッジで成長する。父親のヒュー・ローダムは保守主義者であり、繊維業界の大物であった。母親のドロシーは専業主婦であり、ドロシーの両親はドロシーが幼い頃に離婚、ドロシーは父方の両親に預けられ寂しい子供時代を過ごした。ヒラリーには二人の弟、ヒューとトニーがいる。

ヒラリーは幼少時からスポーツに興味を持ち、テニスやスケート、バレーボールなどを楽しんだ。また早くから政治に興味を持ち、若き共和党員として活動、1964年の大統領選では共和党のバリー・ゴールドウォーター候補を応援するゴールドウォーターガールを務めた。

メイン東高校を卒業後、1965年にマサチューセッツ州の名門女子大であるウェルズリー大学に入学、1年生の時、学内青年共和党の党首に選ばれるが、ベトナム戦争や公民権に関する共和党の政策に疑問を持ち始め、その後辞任。1968年の大統領予備選では、ベトナム戦争介入反対を掲げる民主党のユージーン・マッカーシー候補を支持した。その一方で、同年の夏には首都ワシントンの下院共和党議員総会でインターンを経験、共和党党大会ではニューヨーク州知事ネルソン・ロックフェラーのために働いた。その後ウェルズリー校を優秀な成績で卒業、同大学初の卒業生総代として行ったスピーチが賞賛から非難までさまざまな反響を呼び、地元のテレビ局のインタビューに出演、『ライフ』誌にも取り上げられた。

弁護士時代

1969年、ヒラリーはイェール・ロー・スクールに進み、そこでビル・クリントンに出会う。在学中はマリアン・エデルマンが始めた児童擁護のための組織で働き、また法律が子供に与える影響について特に学んだ。1972年の大統領選ではビル・クリントンが参加していた民主党のジョージ・マクガヴァン大統領候補の選挙運動に加わった。1973年のロースクール卒業(法務博士(Juris Doctor)の学位を受ける。)後は、エデルマンが新たに始めた児童防衛基金 (Children’s Defense Fund) で働いた後、1974年には下院司法委員会によるニクソン大統領弾劾調査団に参加している。

調査団解散後はビルのいるアーカンソー州に移り、ビルとともにアーカンソー大学ファイエットビル校ロースクールで教鞭を取った。この年ビルがアーカンソー州で下院議員選に出馬するが落選、翌1975年に彼と結婚している。1976年にはビルがアーカンソー州の司法長官に選出されて州都リトルロックへ移るのに伴い、アーカンソー大学での職を辞し、ビンス・フォスターがパートナー(共同経営者)を務めるローズ法律事務所に移った。また同じ年の大統領選では、ビルとともにジミー・カーター民主党候補の選挙戦に参加した。1978年、ビルが32歳の若さでアーカンソー州知事に当選するとアーカンソー州のファーストレディとなったが、弁護士としての活動も続け、1979年にはローズ法律事務所の女性初のパートナーとなった。その一方で、アーカンソー州における質の高いヘルスケアの普及を目的とした地方健康諮問委員会 (Rural Health Advisory Committee) の議長を務めるとともに、児童防衛基金の活動にも参加。またカーター大統領の指名により、連邦議会が設立した非営利団体の司法事業推進公社 (Legal Service Corporation) の理事を務めた。

1980年ヒラリーは娘のチェルシーを出産。ビルは再選をかけた同年の知事選に破れるが(当時のアーカンソー州知事の任期は2年)、次の1982年の知事選で当選してカムバックした。この82年の選挙戦を機に、ヒラリーは結婚後も引き続き使っていた「ヒラリー・ローダム」を「ヒラリー・ローダム・クリントン」に替えている。

この第二期目のクリントン知事のもとで、ヒラリーはアーカンソー州の教育制度改革を目的とした教育水準委員会 (Education Standards Committee) の委員長を務めた。

1991年にビル大統領選に出馬。その選挙運動中、ヒラリーが「家にいてクッキーを焼いてお茶を入れることもできたが、自分の職業を全うすることを選んだ」とコメントしたことで、一部から「専業主婦に対して冷淡」とか「急進的フェミニスト」などという批判を浴びることになった。こうした批判は選挙運動中収まることはなく、ヒラリーはその対応に苦慮した。この頃、法律事務所や「ウォルマート」の社外取締役、児童防衛基金の会長などの職を次々に辞している。

同年秋、ビルとクラブ歌手ジェニファー・フラワーズの不倫問題が公になり、この両者の間で交わされた電話の会話の一部を録音したテープがマスコミに流出すると、それまで選挙戦を優勢に戦っていたビルの支持率が急落した。

ファーストレディ

ビルが大統領に当選すると、ヒラリーは翌1993年から8年間、アメリカ合衆国のファーストレディとなった。ヒラリーはアメリカでは初の、院卒にして弁護士のファーストレディーであり、したがって初のキャリアウーマンのファーストレディーである。そのため当時アメリカではヒラリーのことを、かつて国連代表を務めたエレノア・ルーズベルトと並ぶ「最強のファーストレディー」と評していた。

就任後早々、ビルはヒラリーを医療保険改革問題特別専門委員会 (Task Force on National Health Care Reform) の委員長に任命した。同委員会は、連邦政府主導型の健康保険制度導入を視野に入れた「クリントン医療保険計画」を答申したが(アメリカは先進国で唯一、国民皆保険が無い)、アメリカ医療保険制度の抜本的改革となりかねないこの計画は、野党共和党や保険会社、製薬会社、中小企業などによる大規模な反対活動にあい、民主党多数議会をもってしても支持を得ることができず、結局翌1994年に廃案となってしまった。これに勢いを得た共和党は、クリントン政権の政策を「急進的なリベラル改革」と位置づけて攻撃、同年の中間選挙では大幅に議席を伸ばして両院で多数となり、行政府と立法府のねじれ現象が生じることになった。

後にヒラリーは著書の中で、医療保険改革の失敗は「すべて自分の政治力が未熟であったせい」だと記している。一方当時の政治評論家は一様にこの失敗が「ファーストレディーを国政に参画させるという前代未聞の人事が国民には不適切だと受け止められたということに他ならない」と評した。しかし、1996年の著作『It Takes a Village and Other Lessons Children Teach Us』はベストセラー本となり、ヒラリーの子供を中心とした政策課題は過半数の女性には好感を持って迎えられ、また大多数のアメリカ国民は「国主導型の健康保険制度導入ということ自体がアメリカにとっては時期尚早だった」と見ていたことが世論調査などで明らかになっている。

いずれにしても、大統領選挙キャンペーンでビルがヒラリーとのコンビを「ひとつ分のお値段で、ふたつ分のお買い得 (“get two for the price of one”)」と言っていたように、ビルがヒラリーを「最大のアドバイザー」と評して全幅の信頼を置いていたのは事実であり、ヒラリーはその後もクリントン政権を通じて閣議に臨席するという特別な存在であった(これはケネディ大統領が信頼する実弟のロバート・ケネディを司法長官に任命して常に傍らにおいた例を踏襲したものだといわれる)。

こうした立場のヒラリーは彼女に批判的な人々から「共同大統領 (co-President)」や「ビラリー (Billary)」と呼ばれた。こうしたあだ名は、彼女のややもすると他者を小ばかにしたかのような話し振りが、鼻持ちならない性格として批判者たちの憎悪を増幅しているためでもある。またヒラリーは、イーストウィングにあるファーストレディーとしてのオフィスとは別に、大統領執務室や閣議室のあるウエストウイングにも異例のオフィスを構えたが、そうした彼女のスタッフたちを、ヒラリー自身も含めて周囲は「ヒラリーランド (Hillaryland)」と呼んだ。

医療保険改革や中間選挙での敗北と逆風が続いたヒラリーだったが、中華人民共和国の中国共産党政府の人権侵害に反対する人権擁護団体や一部の議員が出席に反対する中、1995年9月、北京で開催された国連世界女性会議に米国代表団の名誉団長として出席、演説の中で「女性の権利とは人権である」と訴えた。1996年1月には初の著書となる『村中みんなで (It Takes A Village)』を出版した。

同じ頃、ホワイトウォーター疑惑関連で、紛失したとされていたローズ法律事務所時代のヒラリーによるマディソン・ギャランティ貯蓄貸付組合のための法律業務の記録がホワイトハウスで突然見つかった。1月26日ヒラリーはスター独立検察官の召喚により、紛失したとされていた記録について大陪審の前で証言を行った。

上院議員

2000年、長年ニューヨーク州選出上院議員を務めた民主党のダニエル・パトリック・モイナハンが引退を表明すると、ニューヨーク市市長で共和党のルドルフ・ジュリアーニが出馬を表明した。ジュリアーニ市長の高い支持率を危惧した民主党は、冷めることないクリントン人気に期待をかけ、ヒラリーに白羽の矢を立てた。選挙区の住民でもなく、しかもファーストレディーの国政選挙出馬は前代未聞で、現職市長相手の選挙は接戦が予想されたが、ジュリアーニが前立腺癌治療のため出馬を取り止めると、共和党の後継候補ラヅィオ下院議員では勝負にならず、ヒラリーは得票率で55%を得て当選した(なおこの出馬も1964年にマサチューセッツ州出身のロバート・ケネディ司法長官が民主党に乞われて上院選にニューヨーク州から出馬し当選した例を踏襲したものだと言われる)。

ファーストレディー時代は左派色が強く、夫のセックススキャンダルについて「右派の陰謀」とまで言い切ったこともあるが、上院議員になると世論に同調した柔軟性も見せるようになった。

一貫して青少年の保護を主張し、「グランド・セフト・オート」(“Grand Theft Auto”) シリーズなどの暴力的な内容のコンピュータゲームに登場するセックスシーンなどを問題視して、未成年者に対するこれらの販売を禁止する法律の制定に積極的な立場をとっている。

再選をかけた2006年の上院選では、共和党候補に得票率で67%対31%という大差をつけて勝利した(このため「ヒラリー当確」は全米一早く出た)。この圧倒的な再選をうけ、かねてより噂になっていたヒラリーの2008年大統領選への出馬は現実の選択肢として取沙汰されるようになった。また選挙後ビルが複数のインタビューで「ヒラリーが大統領選に出馬するかしないかは分らないが、ヒラリーが大統領になったとしたら素晴らしい大統領になることは間違いない」と彼女の出馬を言外に臭わせたことから、ヒラリー出馬説は一層真実味を帯びるようになった。

大統領選

ヒラリーは、元ファーストレディとしての知名度や経歴実績から「女性初の大統領」の有力候補とされた。大統領選挙には2008年と2016年の2度立候補し、有力候補とされていたが、2008年には党内予備選でバラク・オバマに、2016年には本選でドナルド・トランプに破れ大統領就任は至らなかった。

2008年

2007年1月20日、2008年大統領選への出馬を正式に宣言した。元ファースト・レディの知名度に加え、人気や集金力でも民主党内では群を抜いており直後にCNNが行った世論調査では、民主党大統領候補にはヒラリーがふさわしいとする声が40%にものぼり、バラク・オバマ上院議員の21%、ジョン・エドワーズ元上院議員 (2004年の副大統領候補)の11%など、他候補を大きく引き離していた。

しかし予備選を前に勢いが衰え、2008年1月3日にアイオワ州で行われた民主党予備選の開幕戦ではオバマとエドワーズに敗れ3番手に終わった。その後1月8日にニューハンプシャー州で行われた予備選挙ではオバマに僅差ながら勝利し、復活の兆しを見せ、スーパー・チューズデーではオバマ候補とほぼ拮抗した。

しかしその後は次第にオバマ陣営の勢いに押されて劣勢となった。特にスーパー・チューズデー後に行われた予備選では、オバマに9連敗を喫し、民主党大統領候補としての選出は厳しい状況となった。3月のミニ・チューズデーでは大票田のオハイオ州とテキサス州で辛勝し、ロードアイランド州も含め3勝1敗と土俵際で踏ん張り、その後もペンシルベニア州といった大規模州では有利に戦いを進めたが、中小州ではオバマ陣営が圧倒的な強さを見せ、テキサス州などの大規模州でもヒラリーに僅差で迫ったオバマが指名獲得を濃厚にした。党内からは撤退論も噴出したが、「最後まで諦めない」として選挙戦を継続する。4月以降の予備選では多少勢いを盛り返し、ウェストバージニア州やケンタッキー州、プエルトリコなどでは圧勝する。

しかし予備選終盤には、ロバート・ケネディが6月に暗殺されたエピソードに言及してオバマ候補の暗殺を期待するともとられかねない致命的な失言までしてしまい、オバマ陣営のみならず共和党陣営からも強い批判を受け、オバマやケネディ家に謝罪した。最終的には特別代議員でもオバマに逆転を許し、オバマが全代議員の過半数を獲得して指名を確定させた。ヒラリーは8月の民主党党大会で正式に撤退を表明し、オバマ支持を表明した。オバマ政権には国務長官として加わり、2012年の大統領選挙ではオバマ再選に尽力する。

なお、ヒラリーはこの指名候補争いで多額の選挙費用を計上し、外部コンサルタントや業者に対し6月の時点で1200万ドル(約10億8000万円)の負債を抱えることになり、大統領選挙直後からその返済に追われることになった。

2016年

2015年4月12日、2016年大統領選出馬を正式に表明する。14日、アイオワ州で討論会を開催し、「ヘッジファンドの幹部が低い税率で納税しているのはおかしい」と富裕層優遇政策を批判した。16日には、オバマ政権で商品先物取引委員長を務めたゲーリー・ゲンスラーを選挙戦最高財務責任者に任命することが報道された。2015年5月5日、クリントン財団の金の問題を追及した書籍『Clinton Cash』が発売されたのを受けて反論サイトを立ち上げた。

2015年4月16日付けで、ローレン・パウエル・ジョブズは、TIME誌にヒラリーを支持する内容の寄稿をし、また最大の献金者となった。選挙期間中には、エレナ・フェッランテの『ナポリの物語』シリーズ第1作を愛読していたという。

2016年3月16日にはウィキリークスが、2010年6月30日から2014年8月12日までにヒラリーの個人サーバが送受信した3万322通の電子メールおよび添付ファイルを公開した。このうちでヒラリー自身の手による記事は7570件にのぼる。これら電子メールは夫のビルが署名した情報公開法によりPDF 形式で入手できるが、最後にPDF 化されたのは2016年2月29日であり、まだ周知されていない事実を相当含むと目される。

選挙戦ではバーニー・サンダースらを破り、2016年7月26日、党内予備選挙を経て大統領候補となった。しかし秋ごろには、HSBCなどと関連するクリントン財団が先の電子メールを手がかりに様々な媒体から叩かれるようになった。

また、2016年夏ごろから演説中に咳が出て止まらず、9月に行われたアメリカ同時多発テロの追悼式典に出席した際に体調不良で途中退席し車に乗り込む時に卒倒してシークレットサービスに抱えられる所が撮影される等、健康不安説がささやかれた。

2016年11月8日の大統領選挙の結果、得票数ではヒラリーが共和党候補のドナルド・トランプを僅差で上回るものの、選挙人は232人と、306人を獲得したトランプに破れ落選した。一般投票で勝利し、選挙人投票で敗北したのは、2000年の選挙のアル・ゴア(民主党)以来16年ぶりであった。

2017年

2017年9月、敗北した大統領選を振り返る回顧録を執筆し出版。本のプロモーションの一環でCBSの番組に出演し、番組の中で大統領選の敗北を「いまだにすごく苦しい。とてもつらい。」と語り、再び大統領選挙に出馬する意思はないことを表明している。

国務長官

2008年11月の大統領選挙ではバラク・オバマが当選した。民主党の指名争いで劣勢になった頃から、ヒラリーがオバマの副大統領になる可能性が報じられたが実現せず、オバマが次期大統領として翌年発足する政権の人事に着手した11月ごろからヒラリーは国務長官など閣僚候補として名前が取りざたされていた。それに対して、「上院を離れることに気が進まない。国務長官という新しい地位は“困難にして魅力的な冒険”だ」と発言するなど、政権入りには後ろ向きであった。しかし、11月20日には彼女は指名を受諾した。

2008年12月1日にオバマ次期大統領はヒラリーを正式に国務長官に指名したことを発表した。ヒラリーは「合衆国にすべてをささげる」と指名を受け入れた。

ヒラリーは上院時代も含め、必ずしも外交に力を入れてきたとは言い難く、外交通とは言い難かったが、大統領選挙においては、ファーストレディとして世界中の要人との人脈を築き上げたことを強くアピールしてきた。オバマが彼女を国務長官に指名した背景には、圧倒的な知名度など彼女の「即戦力になる経験」を重視し、「実利的」な政権であることを示す一方で、大統領選挙で党内に入った亀裂を融和し「超党派」性をアピールしたかったという事情がある。

上院外交委員会は2009年1月13日、ヒラリーを召還して国務長官承認のための公聴会を開始し、オバマ次期大統領就任後の1月21日に上院の本会議が賛成94反対2でヒラリーの国務長官就任を承認した。これに伴いヒラリーは正式に国務長官に就任した。

国務長官としてのヒラリーの最初の外遊先は東アジア諸国であり、日本、インドネシア、韓国、中国を順に訪問して無難な外交デビューを飾った。他方で中東和平・対テロなど喫緊の課題を多く抱える中近東・西南アジアで、大統領と直接協議する権限を与えられた特使が実務に当たっており、外交経験の少ないヒラリーは大きな懸案の少ない無難な地域で仕事を始めざるを得なかったという事情があった。

2009年6月にヒラリーは右ひじを骨折したために、オバマ大統領のロシア訪問の同行、さらに主要国(G8)外相会議の出席ができなかった。そして8月にアフリカ7カ国を訪問したときには、夫のビル・クリントン元大統領が北朝鮮を電撃訪問。最初の訪問国ケニアは夫の訪朝を質問されることになった。

さらにコンゴのキンシャサでの対話集会の席上「コンゴと中国との金融協定」について「オバマ大統領」はどう考えているのかのと男子学生がフランス語で質問したところ、同時通訳が「クリントン元大統領」と誤訳した。それを聞いたヒラリーは気色ばみ、「私に夫が何を考えているか話させたいの?国務長官は私よ。夫じゃない(My husband is not secretary general, I am!)」といい「私の考えなら話すけど、私は夫とは交信しない」と返答した。あとで誤訳の事実を知らされるとヒラリーは機嫌を取り戻したが、「元大統領が、妻に向けられるべきスポットライトを奪った」(AP通信)と報じられた。

2010年の「最も尊敬に値する」男女に、2010年はバラク・オバマ大統領とヒラリー・クリントン米国務長官が選ばれた。尖閣諸島中国漁船衝突事件に関しては9月23日、日本の前原誠司外務大臣との日米外相会談で、「尖閣諸島は日米安全保障条約第5条の適用対象範囲内である」との認識を示した。

同年に一部では二年後の大統領選挙に向けて、副大統領候補としてバイデン副大統領と副大統領職と国務長官職を交代するのではないかという憶測が飛び交ったが、オバマ政権は「全く真実ではない」と否定する声明を出しており、ヒラリー本人もこの時点ではこれを否定していた。

2011年3月18日、国務長官の職を一期限りで引退する旨を明らかにし、同時に次期大統領選挙出馬も否定した。

福島原発事故を受けて、東南アジア訪問の途中に日本へ立ち寄ることとなった。日本での滞在予定時間は5時間だったが、ヒラリーは元大統領夫人として天皇陛下への面会を求めた。菅直人内閣はこれを受け入れ、ヒラリーは2011年4月17日に天皇・皇后両陛下と面会した。民主党政権下では、鳩山由紀夫内閣のときの中国・習近平政治局常務委員(当時)訪日の際に次いで、皇室への国事行為の依頼は1か月以上前に行うという慣行(1か月ルール)を破る2度目の事案となった。なお、ヒラリーは2009年2月に訪日した際にも、国務長官として皇后陛下と面会している。

2012年12月、ウイルス性の胃腸炎に伴う脱水症状で倒れた際に脳振盪を起こし検査で頭部の静脈に血栓が見つかり、30日から入院して治療し、2013年1月2日、ニューヨーク市内の病院を退院した。

2013年1月25日、オバマ大統領と初めて二人だけでCBSテレビに出演し、大統領からは「彼女は最高の国務長官の1人として政権を去る。公の場で感謝を伝えたかった」と称賛された。翌日にCBSで放送された単独インタビューでは2016年の大統領選挙について訊かれ、「あす、あるいは来年のことは予測できない」と立候補に含みを持たせたともとれる発言をしている。任期の終わり頃には国民の人気は高くなっており、退任直前の2013年1月にワシントン・ポストとABCが共同で行った世論調査では支持率65%だった。

2月1日、「皆とともに米国を安全にし、国益を促進し、われわれの価値が敬われるよう努めてきたことを誇りに思う」と挨拶をし、国務省を後にした。直前にトルコの首都アンカラのアメリカ大使館で自爆テロが発生したため、最後までその対応に追われての退任だった。

ヒラリーは雑誌のインタビューで、2014年に入り過激派組織ISILの勢力が増していることについて、シリアでの穏健な反アサド勢力を支援しなかったことが原因と、オバマ大統領の政策を失敗と批判した。

政治的立場

ヒラリーは従来民主党の中でもリベラルな立場をとっており、そのため主に女性層や都市部の非白人層から強い支持を得ていた。アメリカで常に論争となる人工妊娠中絶についても女性の権利としてこれを支持していた。

しかし、上院議員に当選後は銃規制に反対した他、イラク戦争の開戦に賛成するなど、アメリカにおいて根強い勢力を誇っているキリスト教右派層や保守層の支持を得る為に、一定の中道ないし保守的な立場も見せ、これによって民主党内の「ヒラリーだけは絶対にダメ」という反ヒラリー派の懐柔にある程度の成功をみたが、一方でそうした日和見的な姿勢によって、かつての支持層の一部が離反していくというジレンマを経験している。

外交政策

外交的には民主党内では共和党タカ派のネオコンに近いリベラルホークの立ち位置に属しており、NATOを中心としたアメリカの強い軍事力によって、アメリカの自由主義的価値観を、時には軍事力を使ったりクーデターを画策することもためらわずに、世界に広めて世界の秩序を安定させる方針を主張している。ヒラリーの外交政策は民主党内では最もタカ派とされ、実際にネオコンの論客であるロバート・ケーガンはその顧問だったことからヒラリー支持を表明している。また、共和党の知日派重鎮のリチャード・アーミテージもヒラリー支持を公言している。その安全保障政策への信頼から軍需産業の献金を最も受けてるのも共和党候補ではなく、ヒラリーである。このように、ヒラリーの外交政策は民主党の中でも最も共和党に近いとされる。

  • 対イラン…イランはNATOとイスラエルにとっての最大の脅威であり、イランへの軍事侵攻も辞さないと発言している。
  • 対イスラエル…親イスラエルの立場を一貫して取っており、2005年にはヨルダン川西岸地区の分離壁の建設を支持しており、エルサレムをイスラエルの永遠の首都であるとして、米国大使館のテルアビブからエルサレムへの移転運動を支持している。イスラエル軍によるガザ侵攻に関しても双方に停戦を求めるとしながらも、イスラエル側に対するハマスによる挑発行為の結果であるとしている。2016年9月25日、イスラエルの首相ベンヤミン・ネタニヤフと会談して「強くて安全なイスラエル」は米国に不可欠であるとして軍事援助を約束している。
  • 対シリア…アサド政権の打倒を目指す反政府武装勢力にアメリカ軍の最新鋭の武器付与やアメリカ特殊作戦軍の派遣を行ってシリア戦争に軍事攻撃を行うことべきと主張しており、リビア内戦時に行ったような飛行禁止空域の設定をしアサド政権打倒のための空爆を強化すべきである主張している。このように、シリア政策ではオバマ政権、ケリー国務長官の路線とは大きく異なっている。
  • 対キューバ…キューバとの国交正常化を支持している。
  • 対リビア…2011年にはオバマ政権の国務長官として、リビア内戦を解決するためのリビアへの軍事攻撃を行う様に、オバマ大統領を強く説得した。カダフィの殺害を聞いて『来た、見た、勝った』をもじった ”来た、見た、死んだ”(”We came, we saw, he died”)と歓喜していたことが報じられている。鉱産資源を目標にデーヴィッド・キャメロンとニコラ・サルコジを作戦に関係させ、また攻撃に最終的発言権をもったことが、ヒラリーの送受信したメールで示唆されている。
  • 対ユーゴスラビア…1999年にアフリカ滞在中にビル・クリントン大統領に電話で、早急にユーゴスラビア(セルビア人勢力)へ空爆(コソボ紛争)するよう伝えている。
  • 対ロシア…2014年のロシアによるクリミア編入を受けてロシアのプーチン大統領をヒトラーと同じであると激しく非難するなどロシアとの新冷戦に対しては冷戦時代の反露的な冷戦リベラルを継承した対露強硬路線を取っている。経済制裁の継続も支持している。
  • 対中華人民共和国…中国の民主化運動への人権侵害を非難しつつ、米国の友人であると共に、良きライバルであると表現している。

プロチョイス(中絶権利擁護派)

ヒラリーは、中絶病院チェーンでありプロチョイス(人工妊娠中絶権利擁護派)の団体であるプランド・ペアレントフッド(全米家族計画連盟)からの支援を受けており、プランド・ペアレントフッドの会議に出席し、演説している。中絶は憲法で保障された権利であるとしている。

2009年には、マーガレット・サンガー賞をプランド・ペアレントフッドから授与されている。プランド・ペアレントフッドの創設者であり、優生学者であり、白人至上主義団体クー・クラックス・クランに参加していた人種差別主義者で黒人虐殺計画ニグロ・プロジェクトの主導者であったとされるマーガレット・サンガーについて、「私は、マーガレット・サンガーをとても称賛する」と言っている。

名前のこだわり

アメリカでは、夫婦別姓も可能で、近年では多くの女性が夫婦別姓を実践するようになっており、また、それ以外の場合でも旧姓のあとに夫の姓をつけたものを正式な名前とすることも多く、伝統的な夫の姓を使用する女性は減少しつつある。しかしながら、ヒラリー以前のファーストレディーは伝統的な夫の姓を用いることが多かった。ヒラリーは、アーカンソー時代に「ヒラリー・ローダム・クリントン」を名乗り始めて以来、一貫してこの「旧姓込み」の名前を使用している。ホワイトハウス時代にもファーストレディーとしては異例の「The First Lady Hillary Rodham Clinton」と呼ばれることが多く、ここでもヒラリーは他の保守的なファーストレディーとは一線を画していた。このヒラリーの旧姓へのこだわりは、保守派には「典型的なリベラル」とか「70年代のウーマン・リブを思わせる」などと評判が悪かったが、一般には「いかにも自己を埋没させようとはしないヒラリーらしい」と肯定的に受け止められていた。

2000年の上院選に出馬を表明した頃には、これを機会にまた元の「Hillary Rodham」に戻すのではないか、という憶測も流れたが、ヒラリーはためらうことなく「Hillary Rodham Clinton」を維持した。ただし選挙戦では、ポスターからテレビ広告に至るまで、ありとあらゆる媒体に「Hillary」の一語のみを使用した。「Clinton」はビルを連想させて余りある、というイメージ戦略が公の理由だが、これもヒラリーの「自己へのこだわり」なのだと一般には解釈された。

このようにファーストネームで選挙戦を戦うというのは極めて異例である。今日ではマスメディアの多くが彼女のことを一般に「Hillary」と呼ぶようになっている。上院議員としての呼称や敬称をつけた名称こそ「Senator Clinton」だが、彼女が「Hillary Clinton」と呼ばれることが比較的稀であることに変わりはなかった。ところが2007年1月に大統領選に正式に立候補すると、ヒラリー陣営では今度は意識的に「Rodham」を抜いた「Hillary Clinton」を前面に打ち出すようになった。メディアではこれを一様に「保守層への気兼ね」などと分析しているが、これが「ローダム色」の払拭を狙ったものなのか、あるいは「クリントン色」の上塗りを意図したものなのか、その辺の事情については依然として推測の域を出ていない。

著書

  • 繁多進、向田久美子(訳)『村中みんなで 子どもたちから学ぶ教訓』 あすなろ書房 1996年4月 ISBN 475150181X
    • 原著: Hillary Rodham Clinton, It Takes A Village: And Other Lessons Children Teach Us, Simon & Schuster Published, Jan 1996, ISBN 0684818612, ISBN 0684825457
  • 酒井洋子(訳)『リビング・ヒストリー ヒラリー・ロダム・クリントン自伝』 早川書房 2003年12月23日 ISBN 4152085274
    • 原著: Hillary Rodham Clinton, Living History , Simon & Schuster, 2003, ISBN 0743222245; Scribner, 2004, ISBN 0743222253

関連文献

  • ジュディス・ウォーナー(著)、河合伸(訳)『ヒラリー・クリントン 最強のファーストレディ』 朝日新聞社 1993年7月 ISBN 4022566426
    • 原著: Judith Warner, Hillary Clinton: The Inside Story, Signet, January 1993, ISBN 0451178084, Aug 1999, ISBN 0451198956
  • ノーマン・キング(著)、武者圭子(訳)『ヒラリー・R.クリントンの歩み 大統領の最強のパートナー』 小学館 1994年1月 ISBN 4093871078
    • 原著: Norman King, Hillary: her true story, Birch Lane, Jul 1993, ISBN 1559721871
  • リチャード・コーザー(著)、鳥居千代香(訳)『ヒラリー・クリントン 素顔のファースト・レディ』 東洋書林 1999年12月 ISBN 488721376X
    • 原著: Richard Kozar, Hillary Rodham Clinton: Women of Achievement, Chelsea House Pub Published, April 1998, ISBN 079104713X, Bt Bound Published, Oct 1999, ISBN 0613116305, Apr 2003, ISBN 0791047121
  • ゲイル・シーヒー(著)、櫻井よしこ(訳)『ヒラリーとビルの物語』 飛鳥新社 2000年9月 ISBN 4870314371
    • 原著: Gail Sheehy, Hillary’s choice, Random House, Nov 1999, ISBN 0375503447, Aug 2000, ISBN 0345436563
  • 角間隆 『ヒラリーが大統領になる日 スキャンダルとアメリカ国民の政治意識』(『小学館文庫』)、小学館 2001年4月 ISBN 4094036954
  • クリスチヌ・オックラン(著)、鳥取絹子(訳)『ヒラリーという生き方 女性が夢を実現する方法』 ベストセラーズ 2003年10月 ISBN 4584159718
    • 原著: Christine Ockrent, La double vie de Hillary Clinton, French & European Pubns, 1st Jan 2001, ISBN 2221093380, 17 Jan 2002, ISBN 226611879X
  • 岸本裕紀子 『ヒラリーとライス アメリカを動かす女たちの素顔』 PHP新書 2006年11月 ISBN 4569657737
  • ディック・モリス+アイリーン・マクガン(著)、大須賀典子(訳)『ヒラリー vs ライス 次期アメリカ合衆国大統領をめぐる闘い』 アスペクト 2007年3月 ISBN 9784757213456

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