James Buchanan : ジェームズ・ブキャナン

James Buchanan Jr. (April 23, 1791 – June 1, 1868) was the 15th president of the United States (1857–61), serving immediately prior to the American Civil War. A member of the Democratic Party, he was the 17th United States Secretary of State and had served in the Senate and House of Representatives before becoming president.

Buchanan was born in Cove Gap, Pennsylvania, to parents of Ulster Scots descent. He became a prominent lawyer in Lancaster, Pennsylvania, and won election to the Pennsylvania House of Representatives as a Federalist. In 1820, Buchanan won election to the United States House of Representatives, eventually becoming aligned with Andrew Jackson‘s Democratic Party. After serving as Jackson‘s Minister to Russia, Buchanan won election as a senator from Pennsylvania. In 1845, he accepted appointment as President James K. Polk‘s Secretary of State. During Buchanan’s tenure as Secretary of State, the United States grew immensely with the conclusion of the Oregon Treaty and victory in the Mexican-American War. From 1853 to 1856 during the presidency of Franklin Pierce, Buchanan served as the United States Ambassador to the United Kingdom. A major contender for his party’s presidential nomination throughout the 1840s and 1850s, Buchanan finally won his party’s nomination in 1856, defeating Pierce and Senator Stephen A. Douglas at the 1856 Democratic National Convention. Buchanan and his running mate, John C. Breckinridge of Kentucky, defeated Republican John C. Frémont and Know-Nothing Millard Fillmore to win the 1856 election.

Shortly after his election, Buchanan lobbied the Supreme Court to issue a broad ruling in Dred Scott v. Sandford, which he fully endorsed as president. He allied with the South in attempting to gain the admission of Kansas to the Union as a slave state under the Lecompton Constitution. In the process, he alienated both Republican abolitionists and Northern Democrats, most of whom supported the principle of popular sovereignty in determining a new state’s slaveholding status. He was often called a “doughface,” a Northerner with Southern sympathies, and he fought with Douglas, the leader of the popular sovereignty faction, for control of the Democratic Party. In the midst of the growing sectional crisis, the Panic of 1857 struck the nation. Buchanan indicated in his 1857 inaugural address that he would not seek a second term, and he kept his word and did not run for re-election in the 1860 presidential election. After his party splintered, largely along geographic lines, Buchanan supported Vice President Breckinridge over Douglas, who won the support of most Northern Democrats. Republican nominee Abraham Lincoln, running on a platform of keeping slavery out of all Western territories, defeated both Democrats and Constitutional Union candidate John Bell to win the election. In response, seven southern states declared their secession from the Union, eventually leading to the American Civil War. Buchanan’s view was that secession was illegal, but that going to war to stop it was also illegal, and he did not confront the new polity militarily. Buchanan supported the United States during the Civil War and publicly defended himself against charges that he was responsible for the war. He died in 1868 at age 77. He is the only president to remain a lifelong bachelor.

Buchanan aspired to be a president who would rank in history with George Washington. Historians fault him for his failure to address the issue of slavery and the secession of the southern states, bringing the nation to the brink of civil war. His inability to address the sharply divided pro-slavery and anti-slavery partisans with a unifying principle on the brink of the Civil War has led to his consistent ranking by historians as one of the worst presidents in American history. Historians who participated in a 2006 survey voted his failure to deal with secession as the worst presidential mistake ever made. As of 2018, he is the most recent Democrat elected to succeed a Democratic president who did not die in office.

ジェームズ・ブキャナン・ジュニア(1791年4月23日 – 1868年6月1日)は、アメリカ合衆国の第15代大統領である。18世紀生まれの最後の大統領であり、結婚しなかった唯一の大統領である。また、ペンシルベニア州から選出された唯一の大統領でもある。

ブキャナンは人気があり経験豊富な州の政治家で、非常に成功した弁護士であった。彼はペンシルベニア州選出の下院議員となり、後には上院議員に転身、アンドリュー・ジャクソン内閣ではロシア担当大臣を務めた。また、ポーク内閣では国務長官も務めている。最高裁長官の指名を断った後、ピアース内閣ではイギリス担当大臣を務め、オステンド・マニフェストの作成を手助けした。

1844年、1848年、1852年の大統領選において民主党の候補指名に失敗したが、「オールド・バック Old Buck」は1856年の大統領選で民主党の大統領候補に指名された。ピアース大統領の任期の大半、ブキャナンはイギリス担当大臣としてロンドンに滞在していたため、合衆国を支配した派閥政治の十字砲火の中に交わることはなかった。ブキャナンは奴隷制度問題において両派の間で妥協した態度を取ったと見なされた。選挙はジョン・フレモント、ミラード・フィルモアとの三つどもえの戦いとなった。大統領として彼はしばしば「doughface」(奴隷制度に賛成した北部自由州の議員)と呼ばれ、民主党の主導権をスティーブン・ダグラスと争った。ブキャナンは北部と南部の間の平和を維持するため努力したものの、両陣営は疎遠となり、南部諸州の合衆国からの脱退により南北戦争へと突入する。記録に寄ればブキャナンは南部諸州の脱退は不法なものであったが、それを止めるために戦争を行うのも不法であると考えていたとされる。ブキャナンは第一に弁護士として「私は法以外の支配を全く承認しない。」という決まり文句で有名であった。

彼が公職を退く時までに、世論は彼に批判的なものとなった。そして民主党は二つに分裂した。ブキャナンはかつて、アメリカ史上におけるジョージ・ワシントンの位置と同じ格付けを切望した。しかしながら、国が分裂と内戦へ進むのを防ぐための統率力を発揮せず、消極的な対応に終始したことにより、現在も歴史家による格付けでは決まって最悪の大統領の一人として位置づけられる。ブキャナンの伝記執筆者、フィリップ・クラインはこれらの格付けを取り入れている。「空前の怒りの感情の波が国を覆い尽くしたとき、ブキャナンはリーダーシップを引き受けた。この革命的な時代に抑制して敵対したセクションをもったことは、本来注目に値する業績であった。彼の任期は激動の時代であったが、その弱点は南北の怒れる党派によって拡大された。彼の多くの才能は、より静かな時代においては偉大な大統領として認められるものであったかもしれないが、南北戦争という時代の大変動と、偉大なるエイブラハム・リンカーンによって霞んだものとなった。

生い立ち

ジェームズ・ブキャナン・ジュニアは1791年4月23日にペンシルベニア州フランクリン郡ハリスバーグの近く、ケーブ・ギャップの丸太小屋で、裕福な商人のジェームズ・ブキャナン・シニア(1761年 – 1833年)とその妻エリザベス・シュペーア(1767年 – 1833年)の間に生まれた(現在ブキャナン生誕地州立公園として公開されている)。両親はスコットランド=アイルランド系であり、父親は1783年に北アイルランドから移住した。ブキャナンは11人兄弟の2番目で、兄弟の内の3人は幼少期に死去している。ブキャナンには6人の姉妹と4人の兄弟がいたが、1840年まで生き残ったのは1人のみであった。

1799年に一家はマーセスバーグに移り住む。マーセスバーグの家は後にジェームズ・ブキャナン・ホテルとなった。

ブキャナンは村の学校に入学し、その後ペンシルベニア州カーライルのディッキンソン・カレッジに進学した。不品行な振る舞いで放校されそうになったが、第二のチャンスを嘆願し、その後1809年9月19日に抜群の成績で卒業した。同年彼はペンシルベニア州ランカスターへ転居し法律を学び、1812年に法曹界入りした。彼は熱心な連邦党員として、当初は米英戦争に反対した。しかしながらイギリス軍がメリーランド州に侵入すると、彼は志願兵として竜騎兵部隊に加わり、ボルチモア防衛戦に参加した。

ブキャナンは生涯を通じて活発なフリーメイソンのメンバーであり、ランカスターの第43ロッジのマスターであった。また、ペンシルベニアのグランドロッジの副グランドマスターでもあった。

政治経歴

1814年から1815年までペンシルベニア州選出下院議員だった。その後第17から次の4つの議会(1821年3月4日 – 1831年3月3日)に選任された。第21議会では司法部委員会の議長を務めた。1832年から1834年まで駐ロシア大使を務めた。

ウィリアム・ウィルキンスの辞職によって生じた空席を満たすために、ブキャナンは1834年12月6日民主党の上院議員として選出された。1837年と1843年に再選され、閣僚に任命されたのに伴い1845年3月5日に辞職した。彼は外交関係委員会の議長だった。(第24から第26議会)

ブキャナンは上院議員ウィリアム・ルーファス・キングと親しい友達で、数年間ワシントンD.C.で彼と暮らした。また、婚約者が自殺したため、生涯独身を貫いた。

1845年から1849年までジェームズ・ポーク大統領の国務長官を、その後1853年から1856年まで駐英国大使を務めた。彼は1856年に大統領に選出され、1857年3月4日から1861年3月4日まで在任した。

1857年9月に始まった1857年恐慌は、クリミア戦争終結に伴う欧州市場での穀物価格の急落に端を発する初の世界恐慌となり、1859年の終結宣言が出された。しかし、その後も経済回復の無い状態は南北戦争まで続いた。この事も世論が彼に批判的となった理由の一つである。

なお、1859年(安政6年)には日本の江戸幕府における神奈川奉行兼外国奉行で、日米修好通商条約批准書交換使節(万延元年遣米使節)として渡米した新見正興と謁見した。大統領として特に実績のない彼にとっては、日本史の舞台に登場する数少ない出来事である。孝明天皇にはウォルサムの懐中時計を贈呈している。

彼自身は生涯独身であったが、大統領官邸内での雑事は姪のハリエット・レーン(Harriet Lane)に任せており、それがファーストレディと呼ばれ、現在の大統領夫人の別名の起源となった。

引退後はペンシルベニア州ランカスターの近くの自宅「ウィートランド」で暮らした。1868年6月1日に死去し、ランカスターのウッドワード・ヒル墓地に埋葬された。子孫の血統は途絶えている。

内閣

大統領

  • ジェームズ・ブキャナン (1857 – 1861)

副大統領

  • ジョン・ブレッキンリッジ (1857 – 1861)

国務長官

  • ルイス・カス (1857 – 1860)
  • ジェレマイア・ブラック (1860 – 1861)

財務長官

  • ハウエル・コブ (1857 – 1860)
  • フィリップ・トマス (1860 – 1861)
  • ジョン・アダムズ・ディクス (1861)

陸軍長官

  • ジョン・ブキャナン・フロイド (1857 – 1861)
  • ジョセフ・ホルト (1861)

司法長官

  • ジェレマイア・ブラック (1857 – 1860)
  • エドウィン・スタントン (1860 – 1861)

郵政長官

  • アーロン・ヴェナブル・ブラウン (1857 – 1859)
  • ジョセフ・ホルト (1859 – 1861)
  • ホレイショ・キング (1861)

海軍長官

  • アイザック・トウシー (1857 – 1861)

内務長官

  • ジェイコブ・トンプソン (1857 – 1861)

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