Jimmy Carter : ジミー・カーター

James Earl Carter Jr. (born October 1, 1924) is an American politician who served as the 39th President of the United States from 1977 to 1981. Before his presidency, he served as the 76th Governor of Georgia from 1971 to 1975, after two terms in the Georgia State Senate from 1963 to 1967. Carter has remained active in public life during his post-presidency, and in 2002 he was awarded the Nobel Peace Prize for his work in co-founding the Carter Center.

Raised in a wealthy family of peanut farmers in the southern town of Plains in Georgia, Carter graduated from the United States Naval Academy in 1946 with a Bachelor of Science degree and joined the United States Navy where he served on submarines. After the death of his father in 1953, Carter abandoned his Naval career and returned home in Georgia to take on the reins of his family’s peanut-growing business. Despite his deceased father’s wealth, Carter inherited comparatively little due to his father’s forgiveness of debts and the division of wealth amongst his younger siblings. Nevertheless, his ambitions to expand and grow the Carters’ peanut business was successfully fulfilled. During this period, fuelled by the political climate of Racial segregation in the United States and the growing Civil Rights Movement, Carter became a motivated activist within the Democratic Party. From 1963 to 1967, Carter served in the Georgia State Senate, and in 1970, he was elected as Governor of Georgia, defeating former Governor Carl Sanders in the Democratic primary on an anti-segregationist platform advocating Affirmative Action for ethnic minorities. Carter remained in his position as Governor until 1975. Despite being little-known outside of Georgia at the start of the campaign, Carter won the 1976 Democratic presidential nomination and entered the presidential race as the Dark Horse Candidate. In the presidential election, Carter defeated incumbent Republican President Gerald Ford in a close election.

On his second day in office, Carter pardoned all evaders of the Vietnam War drafts. During Carter’s term as president, two new cabinet-level departments, the Department of Energy and the Department of Education, were established. He established a national energy policy that included conservation, price control, and new technology. In foreign affairs, Carter pursued the Camp David Accords, the Panama Canal Treaties, the second round of Strategic Arms Limitation Talks (SALT II), and the return of the Panama Canal Zone to Panama. On the economic front he confronted persistent “stagflation”, a combination of high inflation, high unemployment and slow growth. The end of his presidential tenure was marked by the 1979–1981 Iran hostage crisis, the 1979 energy crisis, the Three Mile Island nuclear accident, and the Soviet invasion of Afghanistan. In response to the invasion, Carter ended détente, escalated the Cold War with a grain embargo against the USSR, and led the international boycott of the 1980 Summer Olympics in Moscow. In 1980, Carter faced a primary challenge from Senator Ted Kennedy, but Carter won re-nomination at the 1980 Democratic National Convention. Carter lost the general election in an electoral landslide to Republican nominee Ronald Reagan. Polls of historians and political scientists usually rank Carter as a below-average president.

In 2012, Carter surpassed Herbert Hoover as the longest-retired president in U.S. history. He is also the first president to mark the 40th anniversary of his inauguration. He set up the Carter Center in 1982 as his base for advancing human rights. He has traveled extensively to conduct peace negotiations, observe elections, and advance disease prevention and eradication in developing nations. In addition, Carter is considered a key figure in the Habitat for Humanity project and has written several books about various topics. In reference to current political views, he has criticized some of Israel’s actions and policies in regards to the Israeli–Palestinian conflict and has advocated for a two-state solution. He has vigorously opposed the Supreme Court‘s decision in Citizens United v. FEC to strike down limits on campaign spending by corporations and unions, saying that the U.S. is “no longer a functioning democracy” and now has a system of “unlimited political bribery.”

“ジミー”ジェームス・アール・カーター・ジュニア(1924年10月1日 – )は、アメリカ合衆国の政治家。ジョージア州上院議員、ジョージア州知事、第39代アメリカ合衆国大統領を歴任。2002年ノーベル平和賞受賞。身長175cm。バプテスト派キリスト教信者。

牧師でもあり、長らく南部バプテスト連盟系列の教会の信徒だったが、南部バプテストが神学的・政治的に保守化を強めたことから2000年には脱退し、その後進歩派の「新バプテスト連盟」(New Baptist Covenant、新バプテスト契約)の創始者のひとりになっている。

カーターは、食料品店主兼農家のジェームズ・アール・カーター・シニアと看護師のリリアン・ゴーディ・カーターの長男(第1子)として、ジョージア州プレーンズという町で生まれ(初の病院生まれの大統領である)、アーチェリーの近くで育った。ジョージアサウスウェスタン大学およびジョージア工科大学で理学士の学士号を取得。

第二次世界大戦終結後の1946年に海軍兵学校へ入校し、同年ロザリン・スミスと結婚。カーターは大西洋および太平洋の艦隊で潜水艦に勤務し、その後ハイマン・G・リッコーヴァー提督によってアメリカ海軍の原子力潜水艦の開発推進プログラムの担当者に選ばれた。1952年12月12日、カナダのチョーク・リバー研究所の試験原子炉NRXで原子炉が暴走、燃料棒が溶融する原子力事故が発生した。カーターはアメリカ海軍の技術者として事故処理にあたり、被曝もしている。1953年、ジョージア州下院議員になったばかりの父親の死に伴い大尉として海軍を退役。当初は低所得者向け公営住宅に暮らすが、妻と共に公共図書館で自学、父親のピーナッツ栽培事業を引き継ぎ、成功を収める。

地方政治

教育委員を始めとする地域の評議員を経験したカーターは、1961年にジョージア州上院議員に立候補。当初は落選とされたが、選挙不正を提訴して認められ当選となる。再選の後、1966年の州知事選民主党予備選に立候補。3位に終わったが、上位候補の思想がかけ離れている中で、カーターの穏健リベラル的な立場が注目され頭角を現した。1970年の州知事選で当選、1971年から1975年までジョージア州知事を務めた。州知事としては人種差別撤廃、行政改革、校区の貧富の差による教育格差の是正などに取り組んだ。

1976年の大統領選挙

1976年の大統領選挙に民主党候補として出馬。当初は「ジミーって誰のこと?(Jimmy, Who?)」という言葉が流行するほど知名度が低かったが、ウォーターゲート事件により疲弊した政治の刷新を求めるアメリカ国民にクリーンなイメージと満面の笑顔をアピール。選挙戦では世論調査会社を活用し、各州が抱える問題の情報を収集し、それに対応するメディア戦略をとった。その結果、現職ジェラルド・R・フォード大統領を破り、投票率は戦後最低を記録するも、一般投票の50.1%を獲得し勝利した。

大統領職

就任式のあと、議事堂からホワイトハウスまで歩いて就任パレードを行った初の大統領である。このパレードが非常に好評であったため、その後多くの大統領がこれに倣っている。

世論調査のデータを盲信する傾向があり、ホワイトハウスに専属の調査員を常駐させるなど力を入れた。しかし、集計ミスの結果(「国民はアメリカの将来を悲観視している」というデータ)を真に受けて緊急テレビ会見を行い、支持率を急落させたこともあった。このころには、トレードマークの笑顔もあまり見られなくなっていた。

内外政策の度重なる失敗、特にイランアメリカ大使館人質事件への対応の拙さにより国民の支持を失い、1980年の大統領選挙で共和党候補で元カリフォルニア州知事のロナルド・レーガン選挙人投票で10倍近い差を、一般投票でも10ポイント近い差をつけられ敗北。1期で政権の座を去った。

なお、アメリカ大使館人質事件では、カーターがホワイトハウスを去ったその日に人質が解放されたことから、海外のマスコミを中心に「選挙後まで人質を拘束させ続けるためにレーガン陣営が秘密の取り引きを結んだ」という報道が見られた。

国内政策

就任後に施行したいくつかの経済政策の失敗と、1979年のイラン革命に前後した石油危機などから、カーター政権中は高インフレと不況が国内を襲うことになった。任期中に外交において様々な問題が降りかかったこともあり、これらの国内問題を解決することはできなかった。1979年3月28日にはスリーマイル島原子力発電所事故もおこっている。なお、エネルギーの生産と調整に関与する内閣レベルの組織であるエネルギー省の設立(1977年)と、教育行政を管掌する教育省の設立(1979年)を行った。エネルギー省の設立は在任前後に起きたオイルショックを受けてのことであった。なお、かつて教育行政は保健教育福祉省(現・保健福祉省)によって行われていた。

カーター時代の経済政策で後に影響を与えたものの一つに、1978年10月に成立した航空規制緩和法(Airline Deregulation Act)が挙げられる。この規制緩和によって路線の参入規制や運賃設定の規制が撤廃された結果、サウスウエスト航空などの格安航空会社が台頭する一方、パンアメリカン航空、イースタン航空など従来の大手航空会社の経営が悪化して倒産、激しい競争から生き残るために航空会社同士の合併が進んだ結果、2013年にはアメリカン航空・ユナイテッド航空・デルタ航空とサウスウエスト航空でアメリカ国内の航空市場シェア87%を占める寡占状態となった。また、投資コスト抑制のための機材の老朽化や経験不足のパイロットが増えたことなどから、大事故が何件も発生することになったという指摘もある。

外交政策

人権外交

冷戦のさなか「人権外交」を標榜し、中東において長年対立していたエジプトとイスラエルの間の和平協定キャンプデービッド合意を締結させるなど、中東における平和外交を推進した。なお1977年3月16日にマサチューセッツ州クリントンで行われたタウンミーティングにおいて、アメリカ大統領として初めてパレスチナ人国家建設を容認する発言をした(しかしながら、この発言が在米ユダヤ人の反感を買い、先に述べた1980年の大統領選挙の敗北の一因となった)。

他にも、ニクソン政権時代から推進されてきたデタント路線を、SALT IIの締結などでさらに推し進めた。またパナマ運河のパナマへの返還などを実現させた。

共和党による外交批判

しかし、CIAの規模削減による情報収集能力の低下や、急速な軍縮を進めたことによる軍事プレゼンスの低下などがきっかけになり、イラン革命やその後のイランアメリカ大使館人質事件及び人質救出作戦「イーグルクロー作戦」の失敗、アフガニスタン侵攻を許したことなどから、共和党などから「弱腰外交の推進者」と叩かれることになった。

イランにおけるアメリカ人の人質が解放されたのは、事件から実に444日後の1981年1月20日であり、皮肉にもこの日はカーターが後継のレーガンに政権を譲り、ホワイトハウスから去った日でもあった。

対中韓政策

中華人民共和国に対しては、前々任者のリチャード・ニクソン大統領の中華人民共和国への接近政策を受け継ぎ、国内外からの反対が強かった中華民国との断交を決断。同国と対立している共産主義の一党独裁国家である中華人民共和国を訪問し、1979年1月1日に国交を樹立した。同月に鄧小平が訪米し、カーターと会談している。

  • 大韓民国に対しては、選挙公約で在韓米軍の撤退を掲げていた。また、韓国政府が、朴正煕の軍事独裁である点や、極秘裏に核兵器開発計画を進めていたこともあって批判的な姿勢を取り、朴正煕率いる軍事政権との関係は険悪だったとされる。

政権

大統領

  • ジミー・カーター (1977 – 1981)

副大統領

  • ウォルター・F・モンデール (1977 – 1981)

国務長官

  • サイラス・ヴァンス (1977 – 1980)
  • エドマンド・マスキー (1980 – 1981)

財務長官

  • マイケル・ブルーメンソール (1977 – 1979)
  • ウィリアム・ミラー (1979 – 1981)

国防長官

  • ハロルド・ブラウン (1977 – 1981)

司法長官

  • グリフィン・ベル (1977 – 1979)
  • ベンジャミン・R・シヴィレッティ (1979 – 1981)

内務長官

  • セシル・D・アンドルス (1977 – 1981)

商務長官

  • ジュアニータ・M・クレップス (1977 – 1979)
  • フィリップ・M・クルズニック (1979 – 1981)

労働長官

  • レイ・マーシャル (1977 – 1981)

農務長官

  • ロバート・セルマー・バーグランド (1977 – 1981)

保健教育福祉長官

  • ジョセフ・アンソニー・カリファノ (1977 – 1979)

保健福祉長官

  • パトリシア・ロバーツ・ハリス (1979 – 1981)

教育長官

  • シャーリー・マウント・ハフステッドラー (1979 – 1981)

住宅都市開発長官

  • パトリシア・ロバーツ・ハリス (1977 – 1979)
  • モーリス・エドウィン・ランドリュー (1979 – 1981)

運輸長官

  • ブロック・アダムズ (1977 – 1979)
  • ニール・E・ゴールドシュミット (1979 – 1981)

エネルギー長官

  • ジェームズ・R・シュレシンジャー (1977 – 1979)
  • チャールズ・W・ダンカン (1979 – 1981)

大統領退任後

積極的な外交活動

大統領任期中は、「人権外交」を標榜しながら大した成果を上げられず、イラン革命やソビエトのアフガニスタン侵攻を許したが、大統領職を退いてからは1981年にカーターセンターを設立し、積極的な外交活動で知られている。

  • 1994年、核開発疑惑により朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とアメリカとの間で一触即発の危機に陥った折、ジェームス・レイニー駐韓アメリカ大使の要請を受け、アメリカ大統領経験者として初めて訪朝して金日成主席と会談。北朝鮮の核開発凍結と査察受け入れで合意し、同年の米朝枠組み合意とつながっていった。しかしその後も北朝鮮は核兵器・弾道弾の開発を極秘裏に継続し、ついにはアメリカ本土を対象とした核攻撃計画まで表明するに至った。
  • 2002年5月、キューバを訪れ、同国指導者のフィデル・カストロと会談。1959年のキューバ革命とその後の関係悪化以来、初めてキューバを訪問したアメリカ大統領職経験者となった。
  • 2010年8月26日、再び北朝鮮を訪問し、同国への不法入国罪で服役していたアメリカ人男性のアイジャロン・ゴメスを釈放するよう交渉を行い特赦を得、ゴメスと共に出国した。
  • 2011年南部スーダン独立住民投票の監視に参加した。

これらの功績により、「数十年間にわたり、国際紛争の平和的解決への努力を続け、民主主義と人権を拡大させたとともに、経済・社会開発にも尽力した」ことを評価され、2002年にノーベル平和賞を受賞した。

イスラエル批判の本を出版

2006年11月、“Palestine peace not apartheid”(日本語版:『カーター、パレスチナを語る―アパルトヘイトではなく平和を』)を出版した。ユダヤ・ロビーといわれる圧力団体が大きな力をもって存在し、政治、経済などを主としてあらゆる分野の主要ポストに多数ユダヤ系が見られたり、アメリカの全人口のたった2%にすぎないが、イスラエル在住のユダヤ人を少し上回る数のユダヤ人が居住するアメリカにおいて、政治家によるイスラエル批判というのはタブーに等しく、発売後かなりの大反響を巻き起こし、ベストセラーとなった。カーターはその大統領就任の経緯からしても、他の歴代大統領たちと比較してイスラエルやユダヤ人社会に過剰に配慮しなくてはならない理由はなかったが、ユダヤ人の多くは民主党の支持者であり、さすがに任期中は公然とパレスチナの味方をすることはとてもできず、この出版で真実を吐露することとなった。この本においてカーターは「ハマースなどパレスチナ側にも非があるが、問題発生から60年、ここまで問題をこじらせたのはイスラエルである」と言い切る。イスラエル建国60周年にあたる2008年に日本でも出版された。

慈善活動

貧困層への住宅建設とコミュニティ設立を中心に活動しているNGO「ハビタット・フォー・ヒューマニティ」の活動を支援しており、同NGOが行っているボランティア活動に同行したり、テレビCMに出演している。

USSジミー・カーター

潜水艦の乗組員として勤務した経験のあるただ1人の大統領として、海軍は潜水艦にカーターの名を命名した。ジミー・カーター (USS Jimmy Carter, SSN-23) は、命名時にまだ生存している人名を付けられた少数のアメリカ海軍艦船のうちの一隻として、1998年4月27日に命名された。

癌の公表

  • 2015年8月12日、肝臓の手術の過程で、癌が体の複数の部位へ転移していることがわかったと発表した。以後はジョージア州の病院で治療を受けるという。
  • 2015年8月21日、カーター自らが記者会見を行い、脳に癌が転移していることを発表した。以後は定期的に放射線治療を受けるという。

弟の不祥事

弟がリビアで22万ドル(2017年のレートで約2500万円)を受け取っていたことが判明した。

自伝

Jimmy Carter 1976 Why not the best? (Bantam books) = 1979 酒向克郎訳 『なぜベストをつくさないのか : ピーナッツ農夫から大統領への道』 英潮社.

エピソード

  • カーターは連邦議会議員の経験はなく、大統領就任前はジョージア州知事、ジョージア州議会上院議員をそれぞれ1期ずつ務めたのみで、大統領選出馬時も当初は全米的な知名度が皆無に等しかった。大統領選出馬を決断し、実母に報告した際は、彼の母親ですら「どこの会長(プレジデント)に立候補するって?」と訝ったという。
  • 1977年、大統領だったカーターはジョン・F・ケネディ暗殺事件の再調査を命じ、下院に「暗殺問題調査特別委員会」を設置した。しかし、疑義の多いウォーレン委員会の結論を覆せるだけの証拠を発見できず、リー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行説を否定する結論は出されたものの、何者かによる陰謀の存在を立証するには至らなかった。なお、暗殺問題調査特別委員会の調査資料の核心部分は2029年の公開まで封印される。
  • 1977年に打ち上げられたボイジャー探査機に搭載されたゴールデンレコードにメッセージを入れたことで、世界で初めて地球外にメッセージを送った人物となった。
  • 1979年4月に故郷ジョージア州で釣りをしていた際、乗っていたボートにウサギが近づいてきたため追い払うという出来事が発生し、マスコミ等によって格好のネタにされた(ジミー・カーターウサギ事件)。
  • 1979年6月に東京サミットのため来日。この時に夫人と共に六本木の焼き鳥店や狛江市内の蕎麦屋へ来店している。表面上は「ふらりと」、「お忍びで」訪れているように報道されたが、実際には大使館側の予約であること、その場に居た客も「仕込み」のサクラであることが判っている。同様の演出はその後の大統領来日の際にも行われている。日本初の米国領事館が置かれた静岡県の下田を夫人と娘と共に27日に訪れ、タウンミーティングとパレードを行った。翌1980年7月9日の大平正芳の葬儀にも参列した。
  • カーターは1990年、梵鐘が縁で広島県甲奴郡甲奴町(現三次市)に訪問した。1994年には同町にジミー・カーター・シビックセンターが落成、カーターも再訪した。また同町内の球場はカーター記念球場と命名されている。また、ピーナッツの種(ランナー種)が送られ、その後「カーターピーナッツ」として地域の特産品になっている。
  • 2007年2月11日に授賞式が行われた「第49回グラミー賞」で、オーディオブック「Our Endangered Values:America’s Moral Crisis」が最優秀朗読アルバム賞を受賞した。
  • 自伝に“Why not the best?”(なぜベストをつくさないのか)がある。これは海軍で原子力潜水艦開発計画に従事していたとき、上司のハイマン・G・リッコーヴァー提督に突きつけられた言葉から来ている。
  • 大統領職を退いてからは、生まれ故郷のジョージア州プレーンズで暮らしている。プレーンズの町はピーナッツの名産地であり、自身もピーナッツ栽培農家であったカーターは、毎年秋に開かれるピーナッツフェスティバルに参加しており、町の名士として活動している。なお、同町出身で妻でもあるロザリンの実家もピーナッツ栽培を家業としていた。
  • 2012年、ハーバート・フーヴァーの31年7カ月の記録を更新し、退任後最長寿の元大統領となった。また、民主党選出の歴代大統領経験者では最高齢である。なお、共和党選出の大統領を含めた場合は、ジョージ・H・W・ブッシュ存命、93歳でカーターより111日年長)、フォード(死去時93歳165日)、レーガン(同93歳120日)に次ぐ4番目に高齢の大統領経験者となる。
  • ホワイトハウスの流儀に馴染めず、来客の朝食もパン食だけということが多く、人気がなかった。私的な食費のみならず、晩餐会の来客の食事費用も大統領一家持ちなうえに、2ケタのインフレによる物価高騰に悩まされ、しかも成人した子供たちや、母親や弟までがホワイトハウスに同居していたため、生活費に困っていたからである。ホワイトハウスに飾る花も業者から買わずに野草を摘むようにさせていたほどであった。公園で花を摘んでいた生花係が警官に職務質問を受けることも頻繁にあった。

Leave a Reply