Joseph Pulitzer : ジョーゼフ・ピューリツァー

Joseph J. Pulitzer (born József Pulitzer; April 10, 1847 – October 29, 1911) was a newspaper publisher of the St. Louis Post Dispatch and the New York World. Pulitzer introduced the techniques of yellow journalism (a type of journalism that presents little or no legitimate well-researched news) to the newspapers he acquired in the 1880s. He became a leading national figure in the Democratic Party and was elected congressman from New York. He crusaded against big business and corruption, and helped keep the Statue of Liberty in New York.

In the 1890s the fierce competition between his World and William Randolph Hearst‘s New York Journal caused both to use yellow journalism for wider appeal; it opened the way to mass-circulation newspapers that depended on advertising revenue and appealed to readers with multiple forms of news, entertainment and advertising.

Today, he is best known for the Pulitzer Prizes, which were established in 1917 as a result of his endowment of Columbia University. The prizes are given annually to recognize and reward excellence in American journalism, photography, literature, history, poetry, music and drama. Pulitzer founded the Columbia School of Journalism by his philanthropic bequest; it opened in 1912.

ジョーゼフ・ピューリツァー(1847年4月10日 – 1911年10月29日)は、新聞出版者およびジャーナリスト、元アメリカ合衆国連邦下院議員。

ピューリツァー賞は彼にちなんで設立された(名前は実際には”Pull it, sir.”(プリツァー)のように発音されるべきであるとされる。自身の発音はこうであった)。

生涯

1847年4月10日、ハンガリーのチョングラード県マコーで、ユダヤ系の家庭に生まれる。初等教育を経て中等教育在学中に、1864年にアメリカへ移住し、北軍の陸軍兵士として南北戦争に従軍した。その後ミズーリ州セントルイスに定住した。コロンビア大学修了。ここで彼は1868年にドイツ語の日刊新聞「ウェストリッヒ・ポスト Westliche Post」で働き始めた。彼は共和党に加わり、1869年にミズーリ州議会議員に選任された。1872年に彼は3,000ドルでポスト紙を購入し、その後1878年には2,700ドルでセントルイス・ディスパッチ紙を買い、二紙を統合しセントルイスの日刊新聞、セントルイス・ポスト・ディスパッチ紙とした。

1883年にピューリツァーはジェイ・グールドから346,000ドルでニューヨーク・ワールド紙を購入したが、それは年間40,000ドルの赤字を出していた。ピューリツァーはワールド紙の焦点を人間の興味の物語、スキャンダルおよび扇情主義へ移し、その購読者数は彼が同紙を購入した時点の15,000から600,000に達しアメリカで最大の新聞になった。1887年には有名なジャーナリスト、ネリー・ブライを雇用した。1885年、彼はアメリカ合衆国連邦下院議員に選任された。

ライバルのニューヨーク・サン紙の編集者は、1890年に彼を「信仰心を放棄したユダヤ人」と呼んで、紙上で攻撃した。彼は新聞の財務管理を維持したが、ピューリツァーのユダヤ人の読者数を疎外すると意図した動きはピューリツァーの健康を急速に悪化させ、彼は主筆の職を辞任した。

1895年2月、移民街を描いたリチャード・F・アウトコールトのマンガ『ホーガン横丁』の転載(『トルース』誌から)を行う。以後、新作が不定期掲載される。

1895年には、ウィリアム・ランドルフ・ハーストがニューヨーク・ジャーナル紙を購入し、それはピューリツァーのワールド紙と同紙との間のジャーナリズム戦争につながる。米西戦争の前および戦争の間のハーストとのこの競争は、ピューリツァーの名前をイエロー・ジャーナリズムとして有名にする。1896年(1895年5月との説あり)にはワールド紙がカラー化を始め、これは当時の革新的な技術だった。

ワールド紙が1909年にフランスパナマ運河会社に対するアメリカによる4,000万ドルの詐欺の報酬を暴露した後、ピューリツァーは、セオドア・ルーズベルトJPモルガンを誹謗したことで起訴された。法廷は、報道の自由として起訴を差し戻した。

1892年にピューリツァーはコロンビア大学の学長セス・ロウに世界初のジャーナリズムの学校を設立する資金を提供することを申し出た。大学は最初にその申し出を拒絶したが、1902年、コロンビア大学の新学長ニコラス・マレー・バトラーは、学校の設立および賞の計画に理解を示した。しかし、ピューリツァーのこの夢は彼の死後まで実現せず、彼の意志に基づき大学に200万ドルを残し、それは1912年のコロンビア大学ジャーナリズム大学院の設立に結びついたが、ジャーナリズムの最初の学校はミズーリ大学に作られた。1917年には、最初のピューリツァー賞がピューリツァーの遺志に基づき与えられた。コロンビア大学ジャーナリズム大学院は今なお世界で最も有名な学校の一つである。

ジョーゼフ・ピューリツァーは1911年に、サウスカロライナ州チャールストンの湾の彼のヨットで死去した。彼はニューヨーク州ブロンクス区のウッドローン墓地に埋葬されている。

なお、ピューリツァーの名を冠したピューリツァー社(Pulitzer,_Inc.)が、セントルイス・ポスト・ディスパッチをはじめとする複数の新聞の発行会社として2005年まで存在していた。2005年にピューリツァー社は同業のリー・エンタープライゼス(Lee_Enterprises)に14億ドルで身売りされている。また、1999年にはローカルテレビ局を運営する部門をかつての宿敵だったハースト社のグループ企業に売却している。

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